旅人の家 著・綾月 昂
「ねえあなた、どうして旅をするの?」
街外れの寂れかけた酒場。
気怠そうな音楽が店内を包み込む中、ユーラ=ラセリオはそう旅人に訊いた。「なんだそりゃ」
旅人は妙なことを訊くな、とでも言いたげにユーラを見返した。
「旅するのに理由なんか要るのか?」
「聞き方が悪かったわね」
ユーラは苦笑した。
「じゃ、言い方を変えるわ。何のために旅を?」
「それもあんまり意味のない質問だよな」
旅人は一蹴し、グラスに残っていたウィスキーを一気にあおる。
グラスを置いてから数秒と経たずに、そこには再び酒が満たされた。「そうかしら? 旅に目的ってものはないの?」
「例えば?」
「いろいろあるじゃない。世界を見て回る? 何かを――誰かを探してる? 他にもさ」
だが、旅人は小さく笑っただけだった。
「他の奴はどうだか知らんが、少なくとも俺にはないね」
「寂しいんじゃない? そういうのって」
「そうでもないさ」
それが当たり前だからな――彼はそう言った。
それきり、一度会話は途切れしばらく経ってから、ユーラは再び口を開いた。
「あなた家族は?」
「いない」
「じゃ、家は故郷はどこ?」
「故郷?」
旅人は、不思議な光を帯びたその青灰色の瞳で、ふとユーラを見据えた。
さてどの辺りの出身なのやら、ユーラには想像もつかない。
白い肌や瞳の色、それに色素の薄い髪は西洋系を、だがその顔立ちは東洋系を思わせる。
ユーラはまだ二十代前半なのに対して、旅人は既に四十代の半ばにさしかかろうかというところだ。
酒場でこの男を見かけたとき、ユーラは奇妙な懐かしさを覚えた。
それで、声をかけてみようと思ったのだ。「なくなった国」
数秒の沈黙の後、旅人は俯いたまま、ぽつりと呟くように言った。
「なくなった国?」
そう言われ、ユーラはここ数年間で『なくなった』国をいくつか思い浮かべてみた。
「あ」
その時、ユーラはふとあることに気付いた――旅人の言わんとしていたことに。
「あなたなくしたの? 故郷を」
旅人は顔を上げ、ユーラを見る。
その顔は笑っていた。哀しげに、寂しげに――「なくしたんじゃない」
旅人は言った。
「なくなったんだ」
「それは」
何故? そう訊きかけて、ユーラは言葉を飲み込んだ。
戦乱かなにかのせいで崩壊した? それとも何らかの理由で居られなくなった?
いずれかは解らないが、どのみち楽しい思い出でもあるまい。
古傷を、わざわざここで抉ることもないユーラはそう思ったのだ。「じゃあ、あなたにとって旅って」
「人生そのものなんだよ」
「そう」
「俺は旅の中にこそ自分の人生を見出す。旅の中にこそ、自分の居場所を――故郷を見出すんだ」
どこか遠くを見つめるかのような目で、旅人は言った。
「おかしいか?」
「どうして? そんなことないわよ」
ユーラは旅人に笑いかける。
「おかしくなんてないわ。でもやっぱり、それってなんだか寂しい」
「そうか?」
「そうよ。ねえ、あなたさっき旅の中にこそ故郷を見出すって、そう言ったわよね。でも本当にそう?」
ユーラが言うと、旅人はわずかに目つきを鋭くし、彼女を見た。
「どういう意味だ?」
その意外なほどの目つきの鋭さに、ユーラは一瞬怯んだが、構わずに先を続ける。
「だからね、あなたはその、無意識のうちに故郷を旅じゃない、本当の故郷を探してるんじゃないかって」
こんなことを言うと怒るかも知れない。ユーラはわずかに身を堅くしたが、旅人は別に怒りだしはしなかった。
「あなたは欲しいんじゃないかしら? 還るべき場所が。出迎えてくれる人が」
「そうかも知れないな」
旅人はふっとため息をついた。
「あんたの言うとおりかもな」
「あたしだってそうよ。一度は自分の故郷をなくしたわ。戦争でねでも、ここが私の第二の故郷よ」
ユーラは両腕を広げて見せた。
「この街がね。こんな寂れた街だけど」
「いいじゃないか」
旅人はウィスキーをあおった。またも、すぐにグラスが新しい酒で満たされる。「住めば都よ。こんな所でも、私を受け入れてくれるわ。こんな片田舎の街でもね」
「あんたは幸せ者だ」
微笑を浮かべ、旅人は言った。
「どうして?」
「居場所がある」
「作ればいいじゃない、居場所が欲しいなら」
「そう簡単にはいかんさ」
「そんなことないったら」
「あんたは大事にしろよ」
旅人は、真顔でそうユーラに言った。
「何を?」
「お前さんの故郷を、さ。せっかく見つけた自分の居場所だろ?」
「ねえ」
ユーラは旅人の顔を覗き込む。
いいことを思いついた――ユーラはそんな顔をしていた。
「あなたもこの街に住んだら? きっと気に入るよ」
「俺が? ここにか?」
旅人は驚いたように、わずかに表情を動かした。
「帰る場所が欲しいなら、ここに帰ってくればいいじゃない。出迎えてくれる人が欲しいなら、私が出迎えてあげる。ね?」
「どうしてお前さん、俺にそんなに親切なんだ?」
「さあ?」
ユーラはそう答えた。いや、正確にはそうとしか答えられなかったのだ。
どうしてだか、自分でもわからない。「言っとくけど、惚れたんじゃないからね」
そうユーラが言った途端、旅人は吹き出した。
「んなこたぁわかってるよ!」
「な、何よ失礼ね」
ユーラが憮然とした顔になると、旅人は可笑しそうに笑いながら、
「いや、悪い親子ほども歳の離れた娘に惚れられるとは、男冥利に尽きると思ってな」
「ま、いいけどでも、悪い話じゃないでしょ?ここに骨を埋めるっていうのは?」
「確かにそうだがね。けど、俺はまだ旅をやめるつもりはない」
そう旅人の言った口調と表情からは、確固たる決意が感じられた。
旅人のグラスはいつの間にか、またも空になっている。
これで何杯目だろうか? ユーラが覚えている範囲でも、既にかなりの量を飲んでいる。「強いのね」
空になったグラスを指して、ユーラは言った。
「まあな」
「でも、程々にしといた方がいいわよ。体に悪いからって、酒場でするような会話じゃないけど」
苦笑しながらユーラが言うと、旅人も彼女に笑顔を向けた。
「やめられないんだ、これが。昔、毎日のようにお前さんと同じことを俺に言い続けた奴がいたけどな」
「へえ、そうなんだ。奇遇よね。私の昔の知り合いにも、酒飲みがいたわ」
「ほお」
「酒は体に良くないから、飲み過ぎるなっていつも言ってたんだけどね。全然聞き入れようとしなかった。まあ、私がまだちっちゃい頃の話だから、あんまり良く覚えてないけど。その人って」
言いかけて、ユーラは言葉を切った。話の途中だったことを思い出したのだ。
「それでいつまで旅を続けるつもり?」
真顔になって、ユーラは訊いた。
「さあな」
「さあって」
「わからん。そんなことは決めてないしな。もしかすると、死ぬまでかもしれんし」
「ここに帰っておいでよ。私、あなたのこと待っててあげるから」
旅人は、じっとユーラの顔を見つめている。
まるで自分の娘でも見るような、それでいてどこか懐かしむようなそんな目だった。
そういえば、とユーラは思った。
自分がこの男に話しかけたのもどこかこの男に懐かしさを感じたからだ。
ここに留まるように言ったのも、おそらくそのために
なにがそうさせたの?
なにが懐かしさを感じさせたの?
何処かで会ったことがある?
ユーラは、自分の記憶を遡って、この旅人のことを思いだそうとしてみた。
だが、やはり会ったことはないように思える。「ねえ、あなたどこかで会ったこと、ある?」
思い切ってそう尋ねてみた。
「さあな。記憶にない」
旅人の答えは素っ気ないものだった。
やはり会ったことはないなら、どうして?
故郷を失ったことがある者同士の、何かかも知れない。
考えていてもらちがあかないので、ユーラはそれで納得することにした。「あっねえ、それでどう? ここに腰を落ち着けるっていうのは?」
すると、旅人は苦笑し、
「気持ちは有り難いが」
と言った。
「そう残念ね」
ユーラは表情を曇らせた。これ以上は説得しても効果はないだろう。
「じゃあさ、せめて骨だけでもこの街に埋めるっていうのは?」
そうユーラは言ったが、旅人は何も答えない。
「駄目なの? それじゃ、旅の途中にまたここに寄ってよ。何度だっていいから」
「ああ」
ようやく旅人はそう答え、笑ってみせた。
「さて、そろそろ俺は行くとするか」
「え、もう?」
ユーラは思わず、旅人の顔を見た。
「これ以上ここにいたら、本当にこの街に住まわされそうだからな」
旅人は、そう冗談めかして言った。
「もう少しぐらいここにいなよ」
「悪いが」
旅人は立ち上がり、カウンターに硬貨を数枚放り出した。
「ちょっと待って」
出口へ向かう旅人を追って、ユーラも外に出た。
夜の冷気が肌に染み込むような感覚を覚え、ユーラは思わず身震いする。「こんな夜中に出かけるの? 今日一日ぐらいどこかに泊まっていったら?」
ユーラは言ったが、旅人はただ黙って首を横に振っただけだった。
「そうでも、さっきの約束は忘れないでね」
「約束?」
「やだな、もう。またここに寄ってくれるって」
「ああそうだったな」
旅人はふと、空を仰いだ。それにつられて、ユーラも空を見上げる。
頭上の空には、銀色の月が輝いていた。
その明るい光は、二人の周囲を――夜の街を照らし出している。「今日はなかなか楽しかったよ。お前さんと話ができて」
「それは良かったわね。でも、それを言うならお互い様。私だってそうだから」
ユーラは言って、旅人に笑いかけた。
「元気でね?」
「お前さんもな、ユーラ」
「えっ?」
旅人の言葉を聞いて、ユーラは一瞬あっけにとられた。
「なんで私の名前、知ってるの?」
名乗った覚えはない。
「お前さんが覚えていてくれたとは、嬉しいね。昔、隣に住んでたこの飲んだくれを」
旅人はそう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。
「けどもう一押しだったな。俺だってことがわかれば完璧だったんだが」
「まさか、あなた」
ユーラは呆然としながら、呟くように言った。声がわずかに震えている。
「『お酒の飲み過ぎは良くないよ』『けど、やめられないんだ、これが』だろ? ユーラ」
「ウィル兄ウィル兄ね?」
ユーラは懐かしいその呼び名を呼んだ。
ウィラン=ジェス=バーネット――戦争で崩壊したユーラの住んでいた街ユーラの隣の家に住んでいた男だった。
けっこうな飲んだくれで、街の人々からはバカにされていたが、子供たちには優しく、特にユーラと仲が良かったのだ。
彼女は、ウィランをこう呼んでいた――「ウィル兄」と。「お前さんは俺がわからなかったみたいだが、俺にはすぐわかったよ。ユーラだってな」
ユーラが彼に懐かしさを覚えたのは、そのせいだったのだ。
「仕方ないじゃないもう二十年近くも経ってるんだから」
「もうそんなになるか歳とるわけだな」
ウィランは苦笑する。
「でも、どうしてすぐに言ってくれなかったの?」
「お前さんがいつ俺だと気付くか、試してみようと思ってな」
「意地悪」
こういうところも、まるで変わっていない。
だが、ユーラにはそれが何ともいえず嬉しかった。「っと、それじゃ俺はそろそろお暇するよ」
そうウィランは告げ、ユーラに背を向けた。
「ちょっちょっと待ってよ、ウィル兄! せっかくまた会えたのに」
それはあまりに懐かしい再会だった。話したいことは、まだ山のようにある。
「さっき、まだ旅をやめる気はないって言ったろ? けど、これ以上ユーラと一緒にいたら、もう何処へも行けなくなっちまうかも知れない。悪いが、再会の挨拶はもうしばらくおあずけだ」
言って、ウィランは歩き出した。
「止めても無駄?」
ユーラはその背中に問う。
「今はな」
「けど――私、待ってるからね? 絶対またここに来てよ。絶対だからね」
ウィランはユーラに背を向けたまま、彼女に向かって軽く手を振った。
「ウィル兄!」
遠ざかりつつあるウィランの背に、ユーラは呼びかける。
「帰っておいでよ! やっぱり、ここが私の居るここが、ウィル兄の『故郷』なんだから!」
すると、ウィランは再び手をあげた。挨拶のつもりだったのだろうか。
ほどなくして、ウィランの姿は夜の闇の中へと消えていった。「帰っておいでよいつか必ず」
ユーラは呟き、ウィランの去っていった方をいつまでも見つめていた。
――その日以来、彼女は夜毎、酒場で彼の『帰り』を待つようになった。
いつのことになるかはわからない。だが、彼女は毎晩でもこうして待ち続けるつもりだ。
失われて久しい幼き日々とその故郷の、懐かしき想い出を―――END―