なんとなく、身動きが取れないでいた。
どんな会社でもコンピュータを導入する事が当たり前になっったこの時勢は、みょうにどこか息苦しい。かちゃかちゃと耳障りなキータイプの音。道路にあふれるけたたましいクラクション。そう言ったものすべてに疲れる事がある。それはたいてい毎年決まった時期に来て、それを私は、大事ななにかを私が忘れてしまっているからだと思う事にしている。
「今年はどうする?」
そしてそんなことを考えてみる。ちょっと空を見上げると、むっとするような風がぱたぱたと葉を鳴らして走っていった。
やっと夏らしくなった街。あせばむ体がじっとしているなと私をせかす季節。
「帰ろう、今年も」
ふと、そんな気になった。
私はその日のうちに車を走らせた。私の故郷へ帰省するため。
数時間走ったあとで。
私は見慣れた小さな湖の岸辺に銀色のコンバーチブルを停め、波も静かな水面を眺める。ここからは車では入れない。私は無言で車を降りた。
……そう、私は帰ってきた。
交通の便がわるく、いちばん近い駅まで車でも30分もかかったのを覚えている。不便なことも何かと多いけれど、私は住んでいたころずっとこの街が好きだった。
小さな堀に沿って小道をゆく。
堀の向こうは古いお屋敷になっていて、小さな頃は白い塀越しにみえる、大きな青い屋根を眩しいもののように眺めては、いったいどんなお金持ちが住んでいるのだろうと目を輝かせたものだ。もっとも私は今でも家主を知らないが、さすがにあの頃のような興味は薄れている。
だれもいない。閑静というのとはまたすこしちがう静けさが、耳元でざわざわと喧噪を刻んだ。
それからたばこ屋の角を曲がり、なだらかな坂を昇ると、もうすぐ私の家だ。
やがてくすんだ茶色が見えてきて、私はそれがかつて私の家だった平屋の屋根だと知る。私はゆっくりと古巣に寄り、低いブロック塀の間を抜けた。
それから、玄関のドアノブに手を伸ばしかけてから気が変わり、家の裏側にある狭い庭へとまわった。
そこには懐かしい犬小屋があり、私は心の中で昔飼っていた子犬の名前を呼びながら、いつもそうしていたようにその中を身を屈めて覗き込む。もちろんその中には子犬はいなかった。
それから私はガラス戸から家の中を覗き込む。六畳間の畳敷き。中はがらんとしてずっと前から何もなかった。今もそれはまったく変わっていない。
私はその景色を見つめ、かすかな記憶の片隅に、あの中で元気に走り回っていた子供の頃の私自身を見つけた。この人気も失せて久しい部屋に、私はなにかを忘れたままなのだろうかと思う。
昔のまま放置された家。私たちが街を出たあの日と同じ、変わる事のない街並の中に、それはある。
ただあの頃と違うのは、もう誰も住んでいないという事と、街はどこもかしこも水のなかという事……。
私は見慣れた小さな湖の岸辺に銀色のコンバーチブルを停め、波も静かな水面を眺める。鋼色のビル群、電脳に彩られた街に背をむけ。振り返ればほとんどあらゆる地上を勝ち取った勝者たちの巣が海まで続いている。
「だれだい、ありゃあ」
と地元の人間達ががとおくでこちらを見ている。いつのまにかその好奇の目にも慣れた。
「ああ、こんなちっぽけな湖に毎年夏になると潜りにくるダイバーさ」
「へえ、こんな藻すらも生えない湖にねぇ。変わり者もいるもんだ」
そんなかれらに踵を返し、私は車に乗り込んだ。
そして故郷に別れを告げる。
文明が山を崩し、森を開き、河の水を飲み干した。誰もが気付いたときには、地上から自然が消えかけていた。やっとそのいびつさに、政府がわずかな自然を保護する区域を増やしていった。そしてさらに人口の少ない街は、政策の一環として、自然へと返す措置が取られた。
そんな中で山間の盆地にある私の故郷は、湖を造るのが容易な地形とみなされて、奇しくも勝者たちの地としての長い歴史を閉じたのだ。新しい街が自然を呑み込み続けているというのに。
この街は古い温泉街だったという。その湯脈が枯渇して、急速に寂れていったという話を聞いている。だから政府は街に流れる川を堰きとめ、そこに小さな湖を造った。しかし元の土地柄が災いし、結局その湖は透明度が高いかわりに魚も水草も、プランクトンすらもけっきょく住めなかった。
だからといって私はそれほど落胆はしていない。私の街が無駄無しをとげたとは思わない。もちろん政府にも感謝こそすれ怨んだ事も一度もなかった。なぜなら新しいビル街が古い街の景観を塗りつぶしていくこの時勢において、そうなったおかげでビルや団地が街並を壊す事もなく、新しい幹線道路が敷かれる事もなくなったのだから。そして藻に包まれる事もなく、湖底に潜ればあの頃のままの街並が出迎えてくれるのだから。
だから私は故郷が変わってしまった事をぼやく者たちを尻目に、毎年かならずここに来る。
そして二度と失われる事のない、あの街並に帰省する。
私はまた湖底へ潜る。