目を開けた青年が最初に目にしたものは、視界いっぱいに広がる、至近距離に迫った老人の顔だった。
「うわっ!」
 驚いてひっくり返りそうになったが、目を覚ましたばかりの青年の体は地面に仰向けになったままだった。地面に後頭部を思い切り打ちつけ、青年は再び気を失いそうになる。
「ようやく目を覚ましたか」
 青年の顔を覗き込むようにしながら老人は呟いた。
 頭を抑えたまま、青年は身を起こす。そして、一体どうしてこんなことになっているのか思い出そうとする。だが、今頭を打ったショックか、それとも老人の顔のアップが強烈だったのか、うまく頭が回らない。
 ふらつく足で青年は立ち上がり、周囲を見回す。覚えのない景色だ。草もほとんど生えず、大小さまざまな石が転がる荒地。遠くには、緑というよりむしろ黒っぽい色の森が見える。
 ここがどんな場所なのか想像もつかないが、一つだけはっきりしていることがある。
 ここは、人間が暮らすような場所ではない。
 いきなり異次元にでも飛ばされてきたんじゃないか、などと突拍子もないことを青年は考えてみる。しかし仮に異次元に飛ばされてきたとして、どこから……?
「お前の名前は?」
 老人の声に、青年はふと我に返る。
 もちろん、見覚えのない老人だ。見たところ八十歳くらいで、男性で、ぼろぼろの服を着ていて、脚が悪いのか杖をついている。外見でわかるのはその程度だ。
 視線を転じ、今度は自分の姿を観察する。鏡がないので顔は見えないが、薄汚れた服装は長旅をするためのものらしい。荷物らしい荷物は持っていない――腰に下げられた、一振りの剣を除けば。もし鏡があったなら、彼は自分が短い黒髪の、どちらかといえば小柄な、少年と青年の中間のような容姿の持ち主であることに気付いただろう。
「名前だ、名前。まさか言葉通じてないんじゃないだろうな?」
 言われて青年は自分の名前を思い返す。いろいろ混乱はしているが、さすがに自分の名前まで忘れるどほ間抜けているつもりはない。
「ラ――」
 言いかけて、青年は自分の声がかすれていることに気付き、咳払いしてから言い直す。
「ラータルト……」
 間違いない。これが自分の名前だ。しかし、まだ何か忘れている気がする。
「ラータルト……あれ? ちょっと待って、ラータルト……なんだっけ?」
 名前は覚えている。だが、名字が思い出せない。
「どこから来なすった?」
 続けざまに質問されるが、しかしそれすらも思い出せなかった。名字や出身地だけではない。ここに来た理由、どうやってここに来たのか、そして自分は何者なのか。その意味を悟った時、ラータルトは恐ろしさに身震いした。
「僕は……記憶喪失、なのか? それに一体、ここはどこなんだ?」
「言っても理解できるかどうかはわからんが、ここは旧帝国領だ。その格好を見る限り、お前は大陸の人間だろう? きっと長い船旅をして来たのだろうな。それにしても無茶しよる、こんなところを一人でうろついていたら、いつ奴らに食われてもおかしくないぞ」
「帝国領……大陸……」
 何一つ理解できない。だが、老人の言葉に聞き捨てならない部分があったことに気付く。
「ちょっと待て、食われるって……何に?」
「異獣だ」
「イジュウ?」
「普通の生き物とはかけ離れた姿をした、禍々しい生き物だ。先々代の天帝が最期に解き放った呪いによって、多くの異獣が生まれ、人間を含む他の生き物を食い尽くしている――おそらく、この国で生き残っている者はわしと天帝くらいのものだ」
 背筋が寒くなってくる。自分はなぜ、そんな恐ろしい場所に足を踏み入れたのか? いくら考えても思い出せない。自分の意思でここに来たのは間違いないようだが――
「それじゃあな。達者で暮らせよ」
 思案に暮れるラータルトに背を向け、老人はいきなり宙に浮かび上がった。
「えっ……と、飛んでる?」
 唖然とする青年を置き去りに、そのままふわふわとどこかへと飛んで行こうとする。
「あっ、ちょっと待って!」
 ラータルトは慌てて老人を追いかける。こんな何もない荒地に一人で置き去りにされてはたまらない。
 だが、いくら彼が全力で走ろうとも、老人の背中は近づくどころか、どんどん離されていく。必死で追いかけながら、彼は理解した。そんな『異獣』なるものが徘徊するこの恐ろしい地で、よぼよぼの老人が一人で生き抜いてこられたのは、あの不思議な力のおかげなのだろう。
 しかし、そんな場所で自分一人で置き去りにされ、生き延びることができるとは思えない。自分が乗ってきた船を探し出せば大陸とやらに帰れるかもしれないが、見つかる保証はどこにもない。ここで老人を見失うわけにはいかない。

 老人を追って走るうちに、いつの間にか周囲は荒地でなく森になっていた。老人は彼の走るはるか先を、木々を軽快にすり抜けながら飛んでいく。
 幹は色を失って灰色に、葉はわずかに緑色がかった黒い色に変色している。もはやこの木々は生きてはいないのだろうが、枯れて朽ちているわけでもない。根は固く乾燥していて、足をぶつけると思いのほか痛い。
 そんな根に足を取られ、ラータルトは派手にすっ転んだ。慌てて起き上がるが、すでに老人の姿は見当たらない。それでもなんとか追いかけようと、足を踏み出した瞬間。
 それと、目が合った。
 熊のようだった。真っ黒な毛皮の、巨大な熊だった。
 だが、彼がかろうじて思い出せる『熊』という動物は、いくら大きいとはいえ人間の倍以上の身長があるわけではなかったはずだし、鼻から蒸気のようなものを吹き出したりはしなかったはずだし、頭に鋭い二本の角を生やしたりもしていないはずだった。
「これが、『異獣』――」
 思わず呟くラータルトを前に、熊に似た姿をした化け物は、むき出しの殺意をラータルトに向けていた。
「……死んだふり、とかしても見逃してくれないだろうなぁ」
 そう言いながらも、彼は化け物と目を合わせたまま、身動きできなくなっていた。少しでも目を逸らしたら最後、この化け物は全速力で襲い掛かってくるだろう。
 視線を動かさず、彼は少しずつ後ろに下がる。一歩、また一歩、だがその距離は遅々として広がらない。
 それもそのはずだった。彼が一歩下がるごとに、化け物は一歩、前進しているのだった。
 しかし今更止まることもできず、彼はさらにもう一歩下がった。その時、背中が何か固い物に触れた――どうやら、木にぶつかってしまったらしい。
 はずみで視線が外れ、そして予想通り、熊は全力で突進してきた。
「うわあぁぁぁっ!」
 もはや冷静に考える余裕などなかった。反射神経の限りをつくして、ラータルトは化け物から逃げ回る。化け物が爪を振り下ろすと、そこらの石より固いかと思われた灰色の幹に、ざっくりと爪の痕がつく。
 一撃でもくらったら最後、骨まで削られるに違いない。鎧を着ていても無駄だっただろう。かえって荷物すら持たない身軽な格好は好都合だ。
 化け物は二度、三度と爪を振り、時には熊にはあり得ないはずの角で突いてくる。そのたびにラータルトは必死にかわす。しかし、明らかに人間を、そして普通の熊をもはるかに上回る速さで動くこの化け物から、このまま逃げ続けることができるとは思えなかった。
 何とか反撃しない限り、このままでは確実に殺される――しかし、この化け物に素手の攻撃が少しでも通じるとは思えないし、石を投げたところで痛くも痒くもないだろう。弓矢すら通じるか怪しい。
 ふと思い出す。今の今まで忘れていたが、確か自分は――
 化け物の一撃をかわすと同時に、後ろに跳んで距離を取ったラータルトは腰に手をやった、そして、手に触れたそれを一気に抜き放つ。
 白銀色に輝く、細身の剣だった。
 刃渡りは腕の長さ程度と短めだが、いかにも切れ味鋭そうな剣だ。それなりの者が扱えば、人間相手なら首を刎ねることすら可能かもしれない。だが、相手は身長にして二倍半、体重にして十倍はあると思われる化け物である。こんな細く小さな武器では、いかにも心もとない。
 自分がこれを扱えるのかどうかはわからないが、立ち向かう以外に道はない。ラータルトは覚悟を決め、剣を構えた。
 その瞬間、不思議な感覚が蘇る。
 化け物が爪を振り下ろすのが見えた。彼の体は自然に動いていた。攻撃をかいくぐり、気付いた時には無意識で剣を振っていた。
 白銀の剣が化け物の胸を切り裂き、返り血がラータルトの頭上を飛び越え、地面に降り注ぐ。
 だが、それで終わりではなかった。胸を切り裂かれたはずの化け物が逆の腕を振るい、彼の体は再び勝手に動き、流れるような動きでそれを回避する。
「思った以上の切れ味だ……なのに」
 今の手ごたえから察するに、普通の熊が相手なら傷は内臓まで達していただろうし、人間なら鎧ごと胴体真っ二つだっただろう。しかし会心と思われた今の一撃は、この化け物の分厚い毛皮に阻まれ、脂肪の下の筋肉にわずかに届いた程度だったらしい。
 化け物が雄叫びを上げた。血走らせた目をラータルトに向け、牙を剥き出す。これが一方的な『狩猟』ではなく対等な『殺し合い』であることを、ようやく認識したらしい。
 ラータルトは死を覚悟した。この化け物がついに本気を出した以上、どう考えても生身の人間が勝てる相手ではない。だがそんな心とは裏腹に、身体には熱がたぎってくる。
 切っ先を相手に向け、ラータルトは今度は自ら切りかかっていく。それに応え、化け物も爪を振り上げ――

「やめろ!」

 突然、空から降ったような声が、ラータルトと化け物が対峙する空間を貫いた。
 あまりの迫力に、ラータルトはもちろんのこと、化け物までもがその動きを止めていた。
「なんだ、今の声は……」
 声の主を探すべく、彼は周囲を見回した。あれほど殺気をみなぎらせていた化け物の方は、今の一声で完全に戦意を失ったらしく、力なくその場に座り込んでいる。
 まず、彼が最初に見たのは、巨大な猫のような生き物だった。
 目の前の熊の化け物ほどの大きさはない。せいぜい牛程度だろうが、身体の割に頭が大きく、顔のわりには目が大きい。これを猫と呼ぶことが許されるのであれば、種類としては三毛猫に分類されるだろう。
 もちろん声の主はこの猫ではなかった。その背中に、一人の人間が乗っている。
 十六、七歳くらいの、少女だった。
 化け物と青年、その双方が戦意を失ったのを確認すると、少女は一息つき、猫の背中から降りてきた。
「ハジメと、あの得体の知れない爺以外に、人間を見たのは何ヶ月ぶりかな」
 少女はラータルトの方へと歩いてくる。熊の血で汚れた剣を抜き身で持つ男を目の前にして、彼女は全く恐れるそぶりを見せない。
 いかにも自信に満ちた表情に不敵な笑みを浮かべ、堂々とした足取りでやってきた少女は、ラータルトの目の前で立ち止まった。
「まあそう怖い顔をするな。私の名は神有月ミオ。お前の名前は?」
 ずいぶんと偉そうな口調ではあるが、ラータルトは怒る気にはなれなかった。というより、そんなことを気にしていられる精神状態ではない。
「僕は……ラータルト」
「ほう、名前から察するに大陸の人間か。ならばお前のことはラータルトと呼ばせてもらおう。お前も私のことをミオと呼ぶことを許す。光栄に思うが良い」
「いやまあその呼び方で構わないけど、光栄に、って……」
 半ば呆れた表情で呟きつつ、改めてラータルトはミオを観察する。記憶がないにも関わらず、彼の基準から考えて、ミオの服装がかなり風変わりなものであることは理解できる。おまけに腰には長い刀のようなものを差している。黒く長く艶やかな髪を後頭部で結んで垂らし、若々しい肌は白くなめらかで、目は大きくて意思が強そうな、そんな少女だ。
 しかし、その態度と口調と言葉の内容があまりにも強烈であるため、正直容姿などどうでも良いとラータルトには思えてしまう。
 ふと、ミオの視線が険しくなった。
「ところでお前は――ラータルトは、何をしにここに来たのだ? 大陸の人間がここに来る理由など、そういくつも考えられないのだが」
 その表情と口調から、ミオが大陸からの訪問者をあまり歓迎していない様子がありありと伺える。
「異獣相手に武者修行にでも来たか? それとも天帝宮の宝物を狙う『とれじゃあはんたあ』とかいう輩の一味か?」
 なんとなく、後者だと言うとこの場で殺されそうな気がしたが――どう答えれば良いかわからないので、とりあえず彼は正直にありのままを答えることにした。
「実は何も思い出せないんだ。名前とかは覚えてるけど、ここに来た目的とか、自分の素性とか何も……」
 すると、それまで険しかったミオの表情がいきなり明るくなった。
「そうかそうか。それは大変だな」
 全然大変だとは思ってなさそうな口調に、ラータルトは少しむっとした。しかしそんな様子に構うことなくミオは続ける。
「しかし私には好都合だ。大陸に行ってから探すつもりだったが、手間が省けた」
 何か、とてつもなく嫌な予感がして、ラータルトは尋ねる。
「あの、探すつもりだったって、何を……」
「喜べ」
 そう前置きしてから、ミオはラータルトの肩に、ぽん、と手を置いた。
「今からお前は私の臣下だ。光栄に思うが良い」
「なんでそうなるんだよっ!」
 思わずラータルトは叫んでいた。
 ミオは不思議そうな顔をする。
「私直々の臣下に任命されるということは、とても名誉なことなのだぞ?」
「いや、名誉とか言われても訳わかんないんだけど」
 そんなことがあるとは思えないが、万一ミオの言う通りそれが名誉なことなのだとしても、それはおそらく帝国でしか通用しない『名誉』なのだろう。しかしその帝国とやらが欠片も残っていないようなこの状況で、そんなものが役に立つとは到底、思えなかった。
「それよりも君は――ミオは一体何者なんだ? こんなところに一人で住んでるなんて……あのお爺さんの知り合いってわけでもなさそうだし」
「よくぞ聞いてくれた」
 ミオは会心の笑みを浮かべ、近くにあった大きな石の上に乗っり、両手を腰に当て、堂々と胸を張りそして高らかに告げた。
「我こそは太夢帝国を統べる者、偉大なる第七十八代太夢天帝、神有月ミオなるぞ!」

 沈黙の中、乾いた風の音のみが通り抜けていく。
 ミオは咳払いすると石から降り、小さくため息をついた。
「まああれだな、記憶喪失なら仕方ないな。天帝がいかに偉大な存在であるか、近いうちに三日三晩かけて説明せねばなるまい」
「いやまあ、天帝がどれだけ偉大な存在だとしても、僕にはあんまり関係なさそうだし……」
「そうか、お前はいかなる権威にも屈することのない堂々たる心根の持ち主であるのだな。結構なことだ」
「そういう問題かなぁ?」
 堂々たるかどうかは別として、ラータルトは確かに、権威やら格式やらそういうものを軽んじる傾向があることを自覚していた。どうも記憶喪失以前かららしいが、もしかしたらこの性格のせいで偉い人に疎まれたりしたこともあったのではないかと思える。
 もっともラータルトの目には、自分よりもミオの方がよっぽど堂々たる――というより単に図々しい――性格に見えてしまうのだが、それを口にしたところでどうせ誉め言葉としか受け取らないだろうから黙っていることにした。
「さて我が臣下ラータルトよ」
「いやまだ僕はミオの臣下になると決めたわけじゃないし」
 そうは言ってみたものの、ここでそれを断ったとして、これから何をすればいいのか。そしてここでミオに見捨てられたとして、この先生き延びることができるのか。
「まあ別に嫌なら嫌で良いが、そうすれば私はお前をここに置いて行くぞ?」
 心を見透かしたような言葉に、ラータルトはぎくりとした。
 しかし、考えてみれば当たり前の話だ。もし自分がミオに助けてもらおうとするならば、それ相応の対価は払うべきだ。どこかの宗教の教義で、他人が困っているなら無償で手を差し伸べてやるべきだ、などというのがあったような気がするが、どう考えてもミオがそんな宗教の信者であるとは思えない。
「もし、僕がミオの臣下になるって言ったら、大陸ってところに送ってもらえるの?」
「当然だ。そもそも私は大陸で活動するために臣下が必要なのだからな」
 その一言に、ラータルトの意思は決まった。
「わかった。助けてくれたお礼ってわけじゃないけど、僕にできることなら頑張るよ」
 その言葉を聞いて、ミオは満面の笑みを浮かべた。
「そうかそうか。実に天晴れな心意気だ。では我が臣下ラータルトよ、これからよろしく頼むぞ」
 ミオはラータルトの肩に手を置くと、近くに擦り寄ってきた巨大な三毛猫にひらりと飛び乗り、森の向こうを指して告げた。
「ここからまっすぐ向こうに行けば、海がある。砂浜で待っていろ、準備が済んだら私もすぐに行く」
「ちょっと待ってくれ、その前に、一つ聞いておきたいんだけど」
「何だ?」
「その……大陸に行って、何をするつもりなの?」
「言ってなかったか? ならば心して聞くが良い」
 そう前置きしてから、ミオは自信たっぷりに、こう言い放った。
「私は大陸を手に入れる。そしてゆくゆくは全世界に君臨する『真の帝』となるのだ」


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