澄み切った青空の下、少女は大きく息を吐く。
 右手で額の汗を拭うと、わずかに日に焼けた肌の上に薄黒い泥の跡が引かれる。もっとも額だけではなく、元は白かったはずの袖なしのシャツ、ポケットのたくさんついた半ズボン、むき出しになった腕と太腿、そして膝上まである作業用ブーツも含め、何もかもが汗と泥の色に染まっていた。
 さらに少女は頭に手を伸ばすと、被っていた半球状の鉄兜を脱ぎ去り、軽く投げ捨てる。鉄兜は見事な放物線を描き、少し離れたところに置かれた荷車の上、山盛りに積まれた石の頂点に覆い被さると同時に、カツンと大きな金属音を響かせた。
 軽くなった首を左右に振ると、夕焼けの色をした短めの髪から汗が飛び散る。しかしそんなことなどお構いなしに容赦なく照らしつける、よく晴れた空に輝く初夏の太陽に、少女はその青空と同じ色の瞳を少し恨めしげな表情とともに向けた。

 少女が背後を振り返ると、そこには奥まで闇に閉ざされた坑道の入口がぽっかりと口を開けていた。この季節、坑内は外よりは涼しいものの、風通しが悪いのですぐに蒸し風呂のようになってしまう。
 ぼさぼさになった髪をまとめて右上で束ねると、ポケットから取り出した紐を使い、慣れた手付きで結んで留める。ふと、汗と泥にまみれたシャツをつまんで匂いを嗅ぐ――まだそれほど酷いことにはなっていないようだ、と安堵の息をつく。
「でも放っておくと大惨事になりそ……さっさと帰ろっと」
 誰にともなく呟きながら、少女は荷車に駆け寄ると、自分の体重の十倍近い鉱石の詰まれたそれを、軽く気合を入れて引き始める。
「そろそろ新しいシャツ欲しいなぁ、でも最近お肉食べてないしなぁ」
 採掘した鉱石は、ロンじいさんの所に持って行けば欲しいものと交換してもらえることになっている。この量なら真新しいシャツ二枚か、よく肥えたニワトリ一羽といったところだろう。
 この辺りはほとんど動物がおらず、自分で捕まえることができないので、肉が食べたければロンじいさんに頼んで街で買ってきてもらうしかない。ただ食いつなぐだけが目的なら、それこそ川魚やら木の実やら雑穀やら草の根やら、いくらでも自分で集められる――もちろん味の保証など微塵もない――のだが、そんなものだけで育ち盛りの少女の食欲を満たせるはずがない。
「あー、もう三年前みたいにイノシシとか迷い込んで来ないかなぁもう」
 荷車を引く足を速めながら、少女は心の底から願う。イノシシでなくてもいい、熊でも狼でもニシキヘビでも、食べられる生き物であれば何でも構わない。

 ――そんなことを考えながら、ふと少女が前方遠くに目をやると、何やら動く影がある。目を凝らして見てみると、少なくともそれが村の人間でないことだけはわかった。四本足の知り合いになど覚えはない。
「もしかして――あたしの祈りが通じた?」
 荷車を引きながら、さらに少女は近づいていく。幸いこちらが風下ではあるし、相手が人間であろうが動物であろうが、この距離からなら気付かれる心配はほとんどない。逸る気持ちを抑えながら、まだそうと決まったわけじゃないと自分に言い聞かせつつ、徐々に距離を縮める。
 ようやく辺りの様子がはっきりしてくる。草むらの中に立っているのは、確かに一頭の獣のようだ。サイのような姿をしているが、あいにく少女はサイを見たことがないので例えるべきものが見つからない。とにかく初めて見る動物だということだけはわかった。
 だが――
「足元にデルニエ草が生えてる……なんであんなところに動物が?」
 そこは、青緑色の細くまっすぐ伸びた草が密集して生えている場所だった。村の近くのあちこちに自生する植物だが、食べると猛毒である上に、普段からわずかに嫌な臭いを発しており、もちろん吸い込むと体に有害であるという困った草である。なぜこんなものが村と同じ名前を冠しているのか少女は知らないが、村の付近に動物がやって来ないのはおそらくこれが生えているせいである。まったく迷惑な話だと少女は思う。
 だがそんな草が密集している上を、その獣は悠然と歩いている。近くに迷い込むならまだしも、直接草の上を歩くなど普通の獣であれば絶対に有り得ない。
 これは――と、少女は息を呑む。
 その場に荷車を止めると、頂上に被さった鉄兜を手に取り、頭にしっかりと被って顎紐を結ぶ。さらに荷車に手を伸ばし、そこから一本の棒のようなものを引き上げる。
 それは少女の身長よりさらに長い柄を持つ、巨大なつるはしだった。鋼鉄製の、黒色の鈍い輝きを持つそれは岩をも砕く、むしろ岩を砕くために特化された道具である。その本来の目的が鉱山の採掘であることは言うまでもない。
 少女はその長い柄をしっかりと握り締めると、三度ほど軽く素振りする。かなりの重さを持つであろうそれを振り回しながらも、少女の体勢は全く揺らぐことがない。ほとんど毎日のように、数年もの間繰り返し使い込まれたそれは、もはや少女の体の一部と化していた。
 そして再び対象の姿を確認すると、少女の顔の端に隠しきれない笑みが浮かぶ。
「うわぁこれは大当たりだよ神様ありがとう! じゃなかった。ええと、魔獣を野放しにして村が襲われたら危ないからね。ちゃんと退治しないとね」
 後半は半ば棒読みだった。
 自然の理から外れた生き物――魔獣とはそのような存在だと少女は認識している。その進行度によってステージTからWまでに分かれるらしいが、ステージが進めば進むほど凶暴かつ強力で、見た目も普通の動物からかけ離れていくという。
 ステージUともなると人間が単独で立ち向かうにはあまりに危険な相手であり、V以降に至っては無限に再生する不死身の体を持つため、普通の人間には絶対に倒せない。唯一『勇者』と呼ばれる選ばれた存在のみが、ステージV以降の魔獣を倒す力を持っていると言われる。
 ぱっと見では普通の獣に見えたくらいである、おそらくステージTだろう――そう判断した少女の歩調にもはや遠慮はない。相手が魔獣であれば、気付かれたところでまず逃げられる心配はないからだ。彼らは『普通の』生き物、中でも特に人間に対して本能的な憎悪を抱いているらしく、こちらの存在に気づけばまず間違いなく襲い掛かってくるはずだ。
 重いつるはしを握っているとは思えない速度で、少女は魔獣に立ち向かっていく。あと十数歩といったところで、魔獣は少女の接近に気付いた――

 突然、視界が急上昇する。
 少女が、自分の体が宙に吊し上げられていることに気付くのに要した時間はまばたき程のものであったが、それでも完全に身動きが取れなくなるには十分な時間だった。
 全身が何やら縄のようなもので締め付けられている。咄嗟に左手を首の前に回したから助かったものの、一瞬遅れたらそれは首を締め付け、容赦なく息を止められていただろう。
 なんとか動く頭だけを動かして、少女は地上に目を向ける。
 まず目に入ったのは、こちらに向かって伸ばされている何本もの触手だった。
 その触手の主である、形だけはサイのように見えなくもない魔獣の本体は、全身が黒い岩を溶かしたような甲殻で覆われており、通常の武器では歯が立ちそうにない。剣や弓矢などでは傷一つつけられないだろう。
「やば……こんなの隠してたなんて!」
 遠目にはステージTのように見えたのだが、こうして間近で見てみるとどう見てもステージU、いや下手をすればステージVという可能性すらある。しかしどちらにしても、完全に動きを封じられたこの状態ではどうしようもない。
 魔獣は少女を締め上げたまま動かない。だが触手にはさらに力が入り、少女の脚や腕に容赦なく食い込む。どうやらこのまま骨をへし折るつもりらしい。
「あっ、いたたたた、折れるってば折れるってば」
 しかしそんな少女の言葉に反して、なかなか折れそうにないことに業を煮やしたのか、魔獣はさらに数本の触手を少女に向けて伸ばしてくる。それは少女の胴体にも絡みつき、あちこちをまさぐりながら締め上げる場所を探そうとしている。
「ちょ、ちょっとどこ触って……あっ、あっ、あーっ!」
 少女は叫び声を上げたかと思うと、突如として表情を変えた。本気の怒りの気配が、どこまでも澄んだ空色の瞳に宿る。
「もう――いい加減にして! さっきから調子に乗りすぎだよ!」
 そう叫ぶや否や、少女は大きく口を開き、渾身の力で左腕を動かすと、その左腕を縛っていた触手に向かって思い切り噛み付いた。
 触手の表面が噛み千切られるとともに、緑がかった気色の悪い色の液体が飛び散る。そのあまりに嫌な味に少女は顔をしかめるが、魔獣の方はそれ以上に驚いたらしく思わず触手を緩めてしまう。
 顔中を液体で汚しながらも、少女は自由になった左手をすかさずズボンのポケットに突っ込み、中から紙の筒のようなものを数本取り出す。
 指先でその先端をこすると同時に、それらをまとめて魔獣に向かって放り投げ、そして叫ぶ。
「吹っ飛べぇ――っ!」
 直後、その言葉通りになった。
 閃光と、ほんの一瞬遅れて高熱の波動と、さらにもう一瞬遅れて轟音と爆圧が周囲の空間を支配する。あまりの威力に少女自身の体も吹っ飛ばされたが、直撃を受けた触手の方はそれどころでは済まされない。少女に向けて伸ばされていた全ての触手が焼き千切られ、魔獣は呻くような唸り声を上げた。
 少女は地面に着地したが、かなりの高さだったため両足首に痛みが走る。しかし動くのに支障があるわけでもなさそうなのでその痛みを無視すると、右手に握っていたつるはしを両手で構え直した。
 魔獣は一瞬怯んだものの、すぐさま戦意を取り戻して少女に向かって突進を始める。だが少女の視線は、千切れた触手の先端を冷静に捉えていた。
 それは既に目に見える速度で再生を始めている。しかし少女は思う。もしこの魔獣がステージVなら、再生など今頃とっくに終わっているだろう、と。
 かつて一度村を襲い、大惨事を起こしたステージVの魔獣の持つ再生能力はこの程度ではなかった。つまりこの魔獣はステージUであり、物理的な攻撃で倒すことの可能な存在である――それを認識すると同時に、少女は自らの勝利を確信した。
 そんな表情に気づかず、怒り狂った魔獣は少女に向かって突進を続ける。
 しかし少女は動かない。

 突如として、二度目の閃光、熱波、そして轟音と爆圧が空間を支配する。同時に、少女に向かって突進していたはずの魔獣の体が、裏側からひっくり返されるような形で空中に浮かび上がる。
 すかさず少女はつるはしを構えたまま全速力で突っ込んでいく。少女の投げ捨てた爆弾をもろに踏み付けてしまい、宙に浮かんでしまった魔獣には、もはやなす術がなかった。
 魔獣の体が、腹を上にして地面に落ちようとした瞬間、少女が思い切りつるはしを振り下ろす。背中の分厚い甲殻が相手では、さすがの鋼鉄製つるはしでも貫通は難しかったかもしれない。だが少女が想像していた通り、腹部の甲殻は背中のものと比べると遥かに薄く、弱かった。
 その一撃は過たず魔獣の心臓を完璧に貫いていた。それでも魔獣はじたばたと手足を動かしていたが、やがてその動きも弱々しくなり、一分近く経ってようやく完全に動きを止める。
 生存に必要な生体構造を根本から破壊された魔獣には、自然の理に反して存在していた代償を支払うという末路が待っていた。
 分厚く硬い表皮は徐々に色褪せ、肉体は互いの結びつきを失い、まるで砂でできていたかのように崩壊を開始する。しかもそれは崩れるそばから蒸発を始め、周囲の空気と混じってゆく――十秒後には、元々そんなものなど存在しなかったかのように、綺麗さっぱり跡形もなく消滅していた。
 ただ一つ、ほのかな輝きを放つ小さな結晶を残して。

 少女はゆっくりと歩み寄り、周囲を注意深く見渡してからその結晶を拾い、そしてようやく大きく息をついた。
「あぶなかったぁー! いや今度こそ死ぬかと思った。これはやっぱりあれだね、頑丈な体に生まれたことに感謝しないとねっ」
 そして、少女は真っ黒に汚れた右手に握られた、透き通った結晶をじっと見つめる。
「でもこんな大きいのが取れるとは思わなかった。これは三羽は確実だね。父さんに一羽食べさせても、まだあたしの分が二羽残ってる。しーあーわーせー」
 うっとりとした表情で呟くと、遠くに置いてきた荷車に向かって歩き始める。全力で戦ったばかりのはずのその足取りは、いまにも飛び跳ねそうなくらいに軽かった。


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