荒地に囲まれた小さな村がある。
 その村には元々名前がなかった。近くに生えている『デルニエ草』はこの地方にのみ生息する特殊な植物で、それゆえこの村もいつしか『デルニエの村』と呼ばれるようになった。
 人口は百人程度、そのほとんどが男性で年齢は四十代から六十代である。必要な食料は採集によって賄うという、自給自足とすら呼べない原始的な生活を送っている。
 主な産業は鉄鉱石や各種原石の採掘――とはいえその採掘規模は零細もいいところで、せいぜい数人の手で掘られている程度だろうと推測されている。最近は採掘量の大半を女の子が一人で掘っているらしい、などという噂すら流れることもあるが、さすがにそれを本気で信じる者がいるとすれば、それは事実を知っている村の住民くらいのものだった。
 最も近い街まで、馬車で朝出発しても着く頃には夕方になってしまうという辺鄙さ故か、わざわざこの村を訪れようとする物好きなどほとんど存在しない。唯一の例外は、この村を最期の住処にしようと決めた者が、年に数人程度というペースで訪れることだ。
 存在こそ不思議と知られているが、実態を知る者はほとんどいない。外の世界と隔離されたこの村の住人の中で、子供と呼べる存在はその少女が唯一だった。しかしそれも過去の話である。セレスティアと名づけられたその少女――皆はセレスと呼ぶ――は今年で十五歳を迎えており、この国ではもはや子供とは呼ばれない。
 赤ん坊の頃から村で育ったその少女は、村とその周囲のことなら何でも知り尽くしている。食べられる木の実のなる場所、思う存分水浴びのできる泉の場所、百人近い村人全員の顔と名前など――ただ一つ、この村はおろか国に住む者のほとんどが知っている事実、すなわちこの村が存在する理由だけは、なぜか知らされていなかったが。
 採掘坑から歩いて十分ほどの場所にあるその村に、先程魔獣を倒したばかりの少女・セレスは鉱石で満載の荷車を牽きながら、鼻歌交じりで戻ってきた。
 付近の草むらに、煮しめたような汚れに染まったボロ布を身にまとった中年男が寝転がっている。彼は死んだような眼をぼんやりと空に向けていたが、荷車の音を聞いた途端にものすごい勢いで跳ね起き、たちまち生気の戻った視線を荷車の主に向けてくる。
「おーセレスちゃんよぉ、よぉ戻ったのぉ、すげぇ音しだから心配してたんだよぉ」
 歯が何本も抜けているためか発音が不明瞭だが、気にすることなくセレスは笑顔で応える。
「うんもう今日はバッチリ。すごく大きいの仕留めちゃった」
「怪我は……なかったようだなぁ、よがった、よがったよぉ」
 そう言うと男は涙を流しながら、ひたすら「よがったよぉ」と呟き続ける。こうなってしまうと彼は当分このままなので、セレスは軽く手を振ってからその場を後にする。

 さらに歩くこと数分――
「たーだいまーっ!」
 古びたボロ小屋の入口に立ち、セレスは大声を張り上げて叫ぶ。
 ボロ小屋とは言っても、村にある他の家々に比べるとこれでもかなりマシな方ではある。柱は比較的新しい木材で補強されているし、屋根にも穴は空いていない。何しろ玄関には扉代わりの板までもがついているのだ。さすがに鍵まではついていないが。
 返事がないので、扉を開けて顔だけで覗き込むようにして、セレスは再び叫ぶべく大きく息を――
「ぅうるせいっ!」
 野太い男の声が、セレスの何倍もの大きさで張り上げられる。
 同時に部屋の奥で何かが蠢く。それは左手に酒瓶を持ち、しかし右手は肘から先がなく、どうやら左足も微妙に引きずっているようで、おまけに頭には一本の毛も生えていない。よく見ると人間のようにも見えるが、それにしてはサイズがおかしい。縦だけでなく横にも異様な大きさを誇るそれは、巨大な筋肉の塊のようにも見えるが、一方で膨れ上がった立派な腹はまるで妊婦のようだ。
「この狭ぇ部屋でそんなでけぇ声出すんじゃねえっ!」
「……いや父さんの方がよっぽど声大きいって」
 あまりの大音声に顔をしかめながらセレスは呟く。
「まあいいや。それより聞いてよ、今回結構おっきいのが手に入ったんだけど、何か欲しいものとか――」
「酒だ!」
 セレスが言い終わらないうちに、「父さん」と呼ばれた男は荒々しく宣言した。
「酒なら何でもいい! あるだけ持ってくるようにロンじいさんに――」
「はいはい」
 まともに取り合わず、セレスは表情も変えずに続ける。
「冗談はそのくらいにして、他に何もないなら今晩のニワトリとついでにあたしの新しいシャツを――」
「おぉい待て、冗談なんかじゃねえぞ!」
 そう言いながら詰め寄る父親を前にして、セレスはさらに顔をしかめて後ずさった。
「うわっ酒くさっ! それ以上近寄らないで!」
「このっ、親に向かって近寄るなたぁ何事――」
「だって酒臭いんだもん! それにその酒、あたしが山で採って来た葡萄を父さんが勝手にお酒にしちゃったやつでしょ。干し葡萄にしようと思って取っといたやつを一粒残らず……あーもう思い出すだけで腹が立つ!」
 突然の剣幕にたじろいだのか、父親は遠慮がちに訊ねてくる。
「……お前も飲むか?」
「要らないってば。前に飲んだ時とんでもない味がしたし、一口飲んだだけで変に悪酔いしたし……とにかく! これからロンじいさんとこに行ってくるから、帰って来るまでにその酒臭いのなんとかしといてよね!」
 全く期待せずにセレスはそう告げると、怒ったような呆れたような表情で家を後にした。


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