「それは少し待って下さい」
不意に、セレスの背後から声がかけられる。
常人の何十倍にも強化された感覚をもってしても、声がかけられるまでその存在に気付かなかった。その事実だけで、セレスは見るまでもなく相手が何者であるかを知った。
魔族にとって最大の天敵。人類が自らの存在を守るべく生み出した抗体とも言うべき存在。究極の存在として目覚めた自らを倒しうる唯一の人間に向かって、セレスはゆっくりと振り返る。そのフードとローブに身を包んだ姿には見覚えがあった。もちろん人間だった頃の記憶によるものである。
「彼らを皆殺しにする前に、まず私と戦って下さい。なぜなら――」
そう告げると、その人物は自らのフードとローブを同時に脱ぎ捨てた。中から出てきたのは、かすかに見覚えのあるような顔だった。どこで見たのかは思い出せない。
「全ては私の責任です。だから、私が終わらせます」
綺麗な女性だ、とセレスは思った。美人かどうかと言われればまあ美人なのだが、彼女の魅力はそんなところにあるわけではない。
内側から放たれる存在感、何もかもをやり通す意思を秘めた真っ直ぐな瞳。その瞳に宿る透き通った空のような色は誰かに似ているが、もはやそれが誰なのかは思い出せない。
収穫期の小麦のような黄金色の髪をなびかせながら、彼女はセレスに告げる。
「こうなる可能性は予測していました。こうならないことを祈ってもいました。あなたには人間として一生を過ごして欲しかった」
腰から剣を抜き放つと、それは太陽の光を受けてまばゆい輝きを放った。
「目覚めてしまったと知ってからも、あなたなら抑えきれるのではないかと希望を抱いていました。しかし、まさかこれほどの力とは。いかにあなたといえども――」
はっきり言ってアギラなどとは桁違いだ――そうセレスは悟った。おそらく剣の技術としてはアギラと同程度、純粋な体力では女性である分かなり劣っているだろう。しかしいかなる手段をもってしても、この女性の心を折ることはできないはずだ。それに何より、彼女は勇者として自分を殺す能力を持っている。
正体はわかっている。今までの話を総合すれば容易に推測がつくが、それ以前に彼女の胸に輝く紋章が全てを物語っていた。歴史上、虹色の紋章を身につけることを許された勇者など一人しかいないのだから。
伝説の勇者ティエラ・レジェンダが目の前にいる。幼い頃の自分を救い、それゆえにずっと憧れていた勇者。彼女の背を追うように勇者となり、そして魔王に挑み、結果として自分は実の母親をこの手で殺し、人間であることをやめたのだ。
セレスの心が喜びに満ち溢れる。そんな存在を、今から自分はずたずたに引き裂くのだ。口の端に思わず笑みを浮かべる。それを見たティエラは、一瞬だけ悲しそうに目を伏せたが、すぐに真っ直ぐに見据えてくる。そしてゆっくりと剣を構える。
最初に動いたのはどちらだったか、お互いに知覚できなかった。
ティエラの振るう剣をセレスが掻い潜り、反撃のために右手を突き出そうとするがもはやその場にティエラはいなかった。
あくまでティエラは距離を詰めようとする。破壊の波動を飛ばされてしまっては防ぎようがないからだろう。逆にセレスはできるだけティエラと距離を取ろうとするが、巧みに動き回られてうまく距離を取れずにいる。
ティエラの斬撃は凄まじかった。人間の限界を超えて強化された感覚能力と運動能力がなければ、とてもではないが回避は不可能だっただろう。もしかすると、とセレスは思った。種族的に言えばティエラは確かに人間かもしれないが、どちらかというと自分と同じく人間外と呼ぶべき範疇に入る存在なのではないかと。
とにかく逃げるばかりでは話にならない。さすがに勇者の持つ剣を素手で受け止めるわけにはいかないし、攻撃面においても素手では射程が短すぎるし、波動を飛ばすやり方は逆に近距離の相手を攻撃するには向かない。
武器が欲しい――そう思った瞬間、セレスの手に光が生まれる。それは一瞬で形を変え、どこかで見覚えのある真紅の大鎌の姿を取った。
「その鎌は――!」
ティエラが驚きの声を上げる。自ら禍々しく輝くそれは魔王ガイストが扱っていたものと瓜二つで、しかしそれとは比べ物にならないほどの力を秘めていることは明らかだった。
武器を得たセレスは反撃に転じる。ティエラに向かって刃を振るうと、その余波で大地に深い爪痕が刻まれる。
「てやぁっ!」
ますます逃げるわけにいかなくなったティエラは、これでもかと言うほどに積極的な攻勢に出る。だがその攻撃も、セレスの手に握られた大鎌によって難なく弾かれる。元々扱っていたつるはしによく似ているためか、それは肉体の一部のごとく自在に操ることが可能だった。
ふと、ティエラの目つきが変わる。戦法を変える気なのか、とセレスが身構えた瞬間、ティエラは何の小細工もなく、己の肉体能力の全てをもって、真正面からの突進を敢行してきた。
自棄になったか――一瞬セレスはそう考えたが、しかしその突進の速度たるや完全に常軌を逸していた。これを防ぎきれる人間など地上に存在するわけがない。以前のセレスは言うまでもなく、あのアギラ・エスパーダですらこの突進の前にはなす術がないだろう。
だが、生憎自分は人間ではない。完全に回避するのは難しいが、ならば逆に代償を払わせてやるまでだ。ティエラを殺すことができるのであれば、少々の傷など安いものだ。
交錯の瞬間、ティエラの剣先はセレスの胸をかすめ――一方、セレスの鎌はティエラの体に直接触れることはなかったが、斬撃の余波がティエラの肩を掠める。ティエラの身につけた勇者の紋章が、強烈な虹色の輝きを放つ。
二つの血飛沫が舞い上がった。異種族である二人の血だが、見た目には全く同じ色に見える。魔族の血が青いなどという噂は、本物を見たことのない者による勝手な想像に過ぎない。
ティエラの右肩に刻まれた傷は、一般人であれば悶絶するような痛みさえ我慢すれば、動き自体にはそれほど支障が出るようなものではなかった。だが流れる血の量はそれなりに多く、放置すればどんどん体力が削られていくだろう。
一方、セレスの胸に刻まれた傷はそれなりに深く、骨までは達していないものの、胸の筋肉をかなり傷つけている。これでかなり動きが制限されるはずだ。
しかし奇妙なことに、斬られた瞬間に飛び散った分を除いて、傷口からはそれ以上の血が流れていないのだ。その傷口を注視していたティエラが、思わず声を上げる。
「……まさか!」
その傷は、アギラの時のように一瞬というわけではなかったが、既に端の方から徐々に塞がりつつあった。
ティエラは一瞬だけ呆然としていたが、しかしすぐに表情を引き締めたようだ。まだ完全に手がなくなったわけではない。力の規模で負けているならば元を断ってしまえばいい。魔族の力の根源たる心臓を貫けば再生は止まる。
そう考えているであろうことは、セレスにも当然予想はついていた。だからセレスはそれに備えて身構えると同時に、服が裂けた胸元の部分から一本の布を引っ張り出し、その辺に放り捨てた。先程の一撃で、胸を覆っていた布が断ち切られていたのだ。
ティエラはその行動を一瞬怪訝に思ったようだが、すぐに気を取り直して構えてくる。
何しろ時間がないのだ。出血が長引くほどティエラが不利になる。急いで勝負を決めなくてはならないだろう。再び先程と同じように、真正面からの突進を行う構えのようだ。先程の交錯でセレスの癖を読んでいるであろうから、今度はそれに応じた攻撃を繰り出してくるだろう。だがセレスとて、同じようにティエラの攻撃を読んでいるのだ。どのような攻撃を出してくるかは大体想像が付く。
そしてセレスは考えていた。先程自分を傷つけたあの一撃――肉体の傷は大したことはなかったが、しかし一つだけ判明したことがある。もしも、あれより深い一撃を受けることがあれば、おそらく――だが、そんなセレスの思考はティエラの言葉によって断ち切られた。
「――これで終わらせる」
ティエラは静かに告げる。言わずともそのつもりであることはわかりきってはいるが、おそらく自らに言い聞かせたのだろう。
人間の視覚では捉えられないほどの加速度だった。だがセレスの強化された視覚には、先程と同じく真正面から、しかも余力を残す気がないのか先程以上の勢いで突っ込んでくるのがはっきりと映し出されていた。
だがセレスは先程と異なり、それに向かって反撃するような動きを取らなかった。それどころかほとんど動かないまま、突進するティエラの姿を黙って見据えている。
そして、ティエラの突き出した剣先がセレスの胸に触れようとしたその瞬間――セレスがようやく動きを見せた。
それは、中途半端な所で止まっていた。
ティエラが狙っていたのは、当然のことながらセレスの心臓である。しかしセレスが直前で動くことによって、それはわずかにずれた場所に突き刺さっていた。
そこは腹であり、人間であれば十分に急所になり得る場所だった。ティエラは知る由もないだろうが、ちょうどアルコンがアギラに貫かれた場所に相当する。だが本来ならば背中にまで突き通されていたはずの刃は、何やら見えない力に遮られるようにして途中で止まっている。
突き刺さった部分からは血が流れない。代わりに刃を取り囲むように、絶え間なく火花が飛び散り続ける。剣を押し込もうとするティエラの力と、それを押し戻そうとするセレスの力が反発しているのだ。
「くっ、こんなところで――!」
ティエラは歯を食いしばる。刃が徐々に力の浸食を受け、表面が溶解し始めているのが見て取れる。しかしだからといってここで引くわけにはいかない。既にかなりの力を使い果たしてしまった今、次の機会はまず訪れることはないだろう。
しかし、腹部でこの抵抗力ということは、当初の狙い通りに心臓を貫こうとしていれば、まず間違いなく刃は心臓に届くことなく、砕け散るなり溶け去るなりしていたはずだ。ならば何のためにわざわざ――ティエラの表情には、そんな疑問がありありと浮かんでいた。
それを見て、セレスが笑みを浮かべた。
しまった、とティエラの表情に焦りが走る。剣がセレスの腹を貫いている以上、ティエラは動くことができない。セレスは右手を伸ばし、必死に剣を握り締めるティエラの手を、上から被せるようにして握る。肌と肌が触れ合い、二人は互いの生命の温度を感じ合った。
そしてセレスはそのまま強く握り締め、渾身の力を込めた――