青色の輝きが虹色の輝きと同調する。
 それは、この場でせめぎ合っていた力に比べれば微々たるものではあった。だが、釣り合っている天秤の一方に小さな重りを乗せれば、天秤は即座にそちらに傾くものである。
 一瞬にして、ティエラの持つ剣の先端は、セレスの腹を突き抜けると同時に背中から勢い良く飛び出した。
「なっ……!」
 予想外の成り行きに、思わずティエラは手を放そうとするが、上からしっかりとセレスの手で押さえられているせいで動かすことができない。
 剣の周囲に飛び散っていた火花が徐々に弱まり、代わりに真っ赤な血がじわじわと傷口から溢れ出す。するとセレスは今度は逆方向に力を込め、ティエラの剣を腹から一気に引き抜いた。
 勢いに押され、力の大部分を使い果たしたティエラが倒れるが、同時に腹に穴を空けたセレスの体も力なく地面に倒れ込む。その肌はもはや桜色ではなく、浮かんでいた紋様もいつの間にか消えていた。
 ただ、おびただしい量の血液のみがとめどなく流れ、地面に赤黒い水溜りを作っていく。
 しばらく呆然としていたティエラだったが、ようやく口を開き、セレスに訊ねる。
「一体……何のつもりですか? どうしてこんなことを?」
「……あたしだって、これでも一応、勇者なんだから……」
 腹に力が全く入らないため、セレスの声はかすかにしか響かない。それでも何とか、息も絶え絶えになりながらセレスは告げる。
「二人分の、力なら……あの力を、抑えられると……」
「……何てことなの、まさかあの状態であなたの意識が残っていたなんて」
 呆然と呟くティエラに向かって、セレスは小さく首を横に振る。
「ずっと、あたしは、あたしだよ。体に力が溢れて、感情が抑えきれなくなって、何もかも、壊してやろう、って……でも、あなたに、ティエラさんに斬られた時、我に返って、あたし、本当に、何やってるんだろう、って……」
 そう告げるセレスの体には、あの紋様が不安定に浮かんでは消えていた。
 明らかに致命傷である腹の傷に対して、本人の意識とは無関係に魔族の力が発動しようとしているのだ。このまま放置すれば、出血多量で死ぬのが先か、再び力が目覚めて暴走するのが先か、そのどちらかしか道はなかった。そして後者の場合、ティエラがこの状態に陥った今、もはやそれを止める手段は存在しない。
 ティエラの表情から、あらゆる感情が消える。まるでオプスキュリテのようだと、セレスは薄れ行く意識の中でぼんやりと感じていた。剣を構えたティエラが近づいてくる。視界が安定しない中、まるでゆらゆらと揺れながら近づいてくるように見える。
「ごめんなさい」
 ティエラがそう告げるのが聞こえたが、何に対して謝っているのかまではわからない。ここで今自分を殺すことを言っているのか、それとも魔王のもとから連れ出して人間として暮らした十五年の人生を与えたことを言っているのか――それとも、この世に生み出されること自体を止められなかったことを言っているのか。
 そのどれもが正しくて、どれもが間違っているような気がした。
「本当はあなたも守りたかった。でも、今の私には――家では夫も子供たちも待ってる。この世界を壊されるわけにはいかないの。駄目なの……」
 おそらく苦痛など感じまい。一瞬にして全てが終わるだろう。
 セレスの脳裏に、今までの人生の記憶が浮かんでくる。村人達に囲まれて育った幼い頃、初めてつるはしを握った時の思い出、全ての葡萄を酒に変えようとする父親との葡萄の奪い合いの日々、その父親との剣術の稽古、魔獣によって村が襲われた時のこと、そして村を救った勇者のこと。
 ヴァルトに連れられ村を出た時のこと、二週間の学院生活、王宮で行われた勇者の叙任式、そしてその日巡り会ったかけがえのない仲間たち。勇者として最初の任務、二度目の任務、三度目にして最後の任務。人間としての日々は唐突に終わりを告げた。ネーベルは愛する人と生きる目的を失い、リュミエールは心を失い、そしてアルコンはアギラの刃に倒れた。
 自分は生きていてはいけない存在なのだろうか。生きていればこの先、世界中に死と恐怖を撒き散らし続けることになるのだろうか。
 しかしもはやセレスには選択の余地は残されていない。出血多量で動くこともできないし、ティエラはどうあがいても自分を殺すつもりだろう。そうなれば世界には平和が戻り、もう誰も殺さなくても、何も壊さなくても済む。人間に恐れられ排斥され、逃げ回る必要もなくなるのだ。それが唯一にして最良の結末である。

 本当にそれで良いのか?

 まずい、とセレスは思った。ひたすら自分の心を抑えてきたのに、ふと気が緩んだ瞬間に疑問を感じてしまった。望みがないのに疑問を抱いたところで辛くなるばかりである。しかしそれ以上考えないようにすればするほど、余計に気持ちが抑えきれなくなる。
 自分は本当に生きていてはいけない存在なのか。それを確かめる機会すらいまだに与えられていないのだ。そもそもリュミエールをあのままにして自分だけ先に死ぬなどということが許されるのか。ネーベルは今度こそ何もかもを完膚なきまでに失うだろう。そしてアルコンの死は完璧な無駄死にとなるのだ。
 このまま終わってしまうことが悔しかった。両目からはとめどなく涙が溢れてくる。
 だが目を閉じることだけはしなかった。あの失態を二度と繰り返すわけにはいかない。この期に及んで助けなど期待してはいないが、せめて自分の最期の瞬間くらいは見届けよう。そして――無様と言われてもいい、命尽き果てるまで抗い続けよう。
 そう決意したちょうどその瞬間、ティエラは剣を振り下ろした。
 刃が一閃し、セレスの首が皮一枚残して切断される。

 それは、正解と紙一重の錯覚だった。
 実際に切り裂かれたのは首の皮一枚、そして全く体が動かなかったにも関わらず、なぜかセレスは立ち上がっている。
 腹の傷そのものは残っているが、何か強引に傷口が閉じられたような感覚がある。流れ出た血液そのものは戻っていないが、残された血が無理矢理活性化させられているのを感じる。
 背後から何かが飛んでくる。死というものに直面したせいか、異様に鋭敏になった感覚がそれを教えてくれる。振り向きもせずに右手を掲げると、固い感触の物体が手に納まったのでそれを握り締めた。慣性によってそのまま飛んでいこうとするそれを全力で引き寄せ、いつもの通りにその物体を、手に馴染んだ武器を構える。
 いつの間にか完全に戻った視覚は、最後まで目を閉じなかったおかげで、目の前で何が起きているかはっきりと捉えている。横から飛び込んできた少年がティエラに向かって一撃を繰り出したせいで、セレスの首を斬ろうとしていたティエラの動きが乱れ、おかげで皮一枚を残して首が斬られる代わりに、皮一枚を斬られて首が残ったのだ。
 少年の一撃を回避したティエラは、そのまま反射的に反撃に移る。乱入してきた相手が何者であるかすら確認していないようだ。これをこのまま見ていればアギラの時と同じ結末を迎えるだろう。だからセレスは動いた。
 つるはしを構えた状態から最速の攻撃、すなわち柄の尻による一撃を叩き込む。それにティエラが反応し、回避の姿勢を取ったところで少年の二撃目が繰り出される。
 今度こそ回避しきれず、ティエラは自らの剣でそれを受け止めようとする。しかし、既にセレスの力の浸食を受けて傷んでいた刃は、その一撃を受け止めきれずに真ん中から真っ二つにへし折られた。
 慌てて飛び退いたティエラは、半分になった剣を構えたまま、仕損じた悔しさというよりは純粋な驚きを顔に浮かべた。だが、それ以上の驚いたのはセレスの方だった。一体何がどうなればこうなるのか、さっぱり理解できない。そんなセレスの声なき疑問に最初に答えたのは、感情の一片も込められていない、澄み切った少女の声だった。
「傷口を物理的に塞ぎ、失った血液を化学的に補充しました。これでしばらくは動けるでしょうが、臓器の機能までは戻っていませんので無理はしないで下さい。あなた方のその傷は、普通であれば明らかに致命傷でした」
「……オプティ? オプティなの? それにあなた方、って……」
 何もかも信じられない、といった調子でセレスは呟く。
「……ついでに痛みとかも取ってくれるとありがたいんだけどな。俺はセレスと違って根性なしだから、今にも意識が飛びそうだ」
 この期に及んで、その声を聞き間違えるはずもなかった。
「アルコン! 生きて、生きてたんだ――生きて――」
「おいおい泣くのは後にしろよ。つーかリュミエール、じゃなくてオプスキュリテだったか? どっちでもいいから何とかしてくれねーかな痛みがシャレになってねーんだが」
 照れ隠しのつもりなのか、殊更にアルコンは痛みを強調する。
 そこに、さらに別の声が加わる。
「その痛みがなければ、逆にあなたは気を失ってしまうでしょう。セレスティア様と違って再生能力のないあなたが、いかに秘術の助けがあるとはいえ、この期に及んで動いていること自体が異常なのです」
 例によって説明くさい台詞を吐くのが誰であるか、見るまでもなく明らかだった。
「セレスティア様が村に向かわれた後、すぐに彼女が目を覚ましましてね。馬車で無理矢理ここまで連れてこられたというわけです」
「一体どうやって目覚めさせたの? あんなにずっと何も反応なかったのに……」
 戸惑うセレスに向かって、問われたネーベルの代わりにオプスキュリテが淡々と答える。
「リュミエールは確かに大変なショックを受けていました。一時は完全に人格が崩壊していたのも事実です。何しろ誰よりも慕っていたセレスティア様が、よりによって自分と同じ道に堕ちる姿を目にしてしまったのですから。ですが――」
 そう告げながら、彼女は一歩前へ、セレスに向かって進み出る。
「それでもあなたはご自分を取り戻し、しかもあんな状況であるにも関わらずリュミエールを守り抜いて頂きました。これはリュミエールのみならず、私の目から見ても尊敬に値します」
「……そんなんじゃないよ」
 オプスキュリテの言葉に、セレスは自嘲的に呟く。
「あたしは結局、リュミに縋ってたんだよ。考えれば考えるほど悪い考えしか浮かんでこないから、だから一生懸命リュミの世話して、それで……」
「――今のその言葉、リュミエールにしっかりと伝えておきます。きっと狂喜乱舞しておかしな言動を取るでしょうが、大目に見てあげてください。彼女はあなたの負担になっていたのではないかと、そのことばかり案じていましたから」
 その時、ふとオプスキュリテの語調が鋭くなる。
「動かないで下さい。私はこれ以上、あなたと事を構えたくはありません」
 そう告げられた先では、ティエラが折れた剣を地面に投げ捨て、代わりに懐から短刀を取り出そうとしていた。
「……パーティメンバーが全員揃った、というわけですか。確かに力のほとんどを使い果たした今の私では、四対一では少々分が悪いように見えますが……」
 そこまで言って、ティエラの表情が見る見る強張る。その視線はアルコンの方を――正確に言えばアルコンの持つ剣に向いていた。
「あなたの、その剣は一体どこで……!」
 問われて、アルコンは一瞬たりともティエラから視線を逸らさずに答える。
「村で、片腕のいかついおっさんにもらったんだ。この剣の力で、何としてもセレスを助けてやってくれ、って。なんでも伝説の剣とか言ってたが、そんなことはどうでもいい。俺は約束したんだ。そのおっさんだけじゃなく、村のみんなにな」
 皆が言葉に詰まる中、アルコンはセレスに向かって叫ぶ。
「村のみんなが言ってたぞ、魔太子とかになってもセレスはセレスだって! 今でもみんな祈ってるぞ、セレスが自分の心を取り戻して、この先も生き延びられるようにって!」
「その剣を、託されたというのか……」
 呆然と呟くティエラに向かって、セレスは静かに告げた。
「お願い、あたしたちをこのまま行かせて」
 その真剣な声に、ティエラははっと顔を上げる。
「この力を抑え込めるように頑張るから。もう自分を見失ったりしないから。あたし、やっぱり今ここで死ぬわけにはいかない――!」
 悲痛とも思える叫びとともに、しばしの沈黙が訪れる。

 だが――
 ティエラはゆっくりと、首を横に振った。
「残念ながら……もはや手遅れです」
「どうしてだよ! あんたさえ目をつぶってくれりゃ――」
 アルコンの叫びが途中で止まる。
 いつの間にか周囲に迫っていた無数の気配――既に丘全体が、数十の勇者を含む数百の集団に囲まれていた。その中には、現役最強と謳われたあのレオパルド・グロリアの姿もあった。
「……勝ち目は、ありませんね」
 ネーベルが静かに呟く。
 何しろ数が違いすぎる。いかにオプスキュリテが尋常でない力を持つとはいえ、包囲する側にだって魔術師は存在する。しかもその数は百人を超えるだろう。セレスが魔族としての力を解放でもしない限り、はっきり言って勝負にすらならない。
「やれやれ、こんな最期を迎えるとは――」
「さすがにこの劣勢を覆すのは、私の力をもってしても不可能です」
「……ちくしょう、俺にもっと力があれば……!」
 口々にそう言いながら、三人はセレスを中心とした陣形を描く位置で構える。
 そんな様子を見て取ったのか、刺客を代表してレオパルドが告げる。
「諸君! 我々が討つべき相手は魔太子のみだ。他の者まで無駄に命を落とすことはない。抵抗しなければ一切の危害は加えぬと、このレオパルド・グロリアの名において約束しよう!」
 それは三人に対する降伏勧告であると同時に、何があってもセレスだけはこの場で討伐するという意思表示でもあった。武人の誉れ高き彼は、決して約束を違えたりはしないだろう――双方の意味において。三人は一瞬だけ沈黙したが、それぞれが口を開いた。
「わたくしに降伏勧告など無意味です。なぜならわたくしは、この先生きていくべき唯一無二の理由を既に失っているのですから」
「――以前にも言いましたが、セレスティアの死はリュミエールの死と同義です。ゆえに、いかに絶望的な状況であろうと、私は最期まで徹底的に抗戦します。既に何人もの勇者を葬っている身としては、この期に及んでためらう理由などありません」
「俺は――約束したんだ。この剣に誓って、何があってもセレスだけは守るって」
 三人が三人とも、言葉こそ違えど、それは明確な拒否の意思表明だった。
「……仕方がない。これも王国と世界、そして人類の安寧のためだ。悪く思うな……!」
 突撃の合図を下すため、レオパルドは手を振り上げる。


Prev<< Page.39 >>Next