塔に飛び込んだ瞬間、それまで聞こえていた神官戦士たちの怒声が、ぴたりと鳴り止んだ。
はっとしてラータルトが振り返ると、今自分が飛び込んだはずの穴が、まるで何事もなかったかのようにきれいに消えていた。
「てか……何、ここ?」
「……私が聞きたい」
二人は呆然とした表情で辺りを見回した。
ラータルトの記憶が正しければ、二人は先程まで塔外周部を囲む『裁きの輪』の中にいたはずで、そこから中心部の『天使の塔』に飛び込んだはずである。そしてこの塔は大陸で最も高い建造物で、外から見る限りでは窓一つ存在しなかったはずだ。さらに言えば、高さはともかく大きさはそれほどでもなかった――見た感じでは、端から端まで全力で走れば二十秒とかからない程度の太さだったはずだ。
なのに、見上げるとそこには青い空。背後にそびえる象牙色の壁は、上に行けば行くほど透き通っていて、その向こうにはやはり青い空が見える。
地面には青々と芝生が生い茂り、視線を前方に向けるとそれはどこまでも広がっていて、向かいの壁が全く見えない代わりにどっちを向いても地平線が見える。
「ここに天使が住んでるって言われたら、信じるしかないよね?」
しかし、ミオからの返答はない。ふと目を向けると、ミオは地面に膝をつき、青ざめた顔で息を荒くしていた。
「ミオ……ミオ! ねえ、大丈夫?」
「大丈夫だから安心しろ」
「原因わからないのに大丈夫って言われても安心なんてできないよ! なんか怪我でもしてるの? それとも病気?」
「原因ならわかっている。それよりあの石はちゃんと持っているか?」
「あの石?」
ラータルトには何のことだかわからなかった。
とりあえず自分の持ち物を確かめてみる。
武器は取り上げられている。それ以外の持ち物も、元々大したものを持っていなかったはずだが、ハンカチなども含めて全て取り上げられたままだ。服はさすがに着ているが、それ以外のものは――
ふと、先程から服の中に潜んでいた違和感に気付いた。
背中に何かが入っている。神官戦士の誰かが投げたと思われる石のようなものが、首筋に当たってそのまま背中の中に入ってしまったらしい。
服の中に手を入れ、それを取り出す。
「これは……宝石? ま、まさかこれって!」
見覚えのある宝石だ。それは血のように赤く、不思議な輝きを秘めていて――しかし、前に見た記憶にあるものより異様な雰囲気をたたえている。
「ピュア・メイデン・ブラッド? なんでミオがこんなものを! まさかどこかから盗み出して――」
「盗み出したとは失敬な。この石は合法的も合法的、これ以上ないくらいに合法的に手に入れた、れっきとした私の所有物だ」
「もしかして闇市場で買ったとか――だからこんな怪しい雰囲気なのかな? 前に見たマクシスの持ってた石は、もっときらきらとした輝きだったというか――」
輝きの力強さ自体は、今ラータルトが手にしている石の方が強いかもしれない。しかし、この石は輝きだけでなく、何やらどす黒いオーラのようなものを同時に発している。
マクシスの持っていた石、そしてミオに持たされたこの石。
「そういうことか!」
事情を理解したラータルトは、思わず叫んでいた。
「やっとわかったよ、マクシスがどうしてミオの魔法をくらって無事で、でも『裁き』を受けた時には防げなくて――どうして同じ『裁き』を受けたカーンは大丈夫だったのか」
ラータルトは、血の色をした石を目の前に持ち上げて見せる。
「つまりそういうことなんだ。マクシスはあの時、石を持っていたからミオの魔法を受けて無事だった。でも『裁き』を受ける時はカーンに石を取り上げられてたから死んでしまった。カーンの方は、マクシスから取り上げた石だか元々持ってた石だか知らないけど、とにかく石を持っていたから……」
「あれから調べたところ、ピュア・メイデン・ブラッドは単に美しいというだけでなく、魔法に対する極めて強力な抵抗力があるということがわかった。お前を連れ出すのに役立つと思って、急遽手に入れたのだ」
そう呟きながら、ミオは青々とした芝生の地面に腰を下ろした。
「もっとも不安もあったがな。実を言うとそれはピュア・メイデン・ブラッドそのものではなく、ただ同じ製法で作られただけの紛い物だ。紛い物とはいえ効果があるのは事実だが、本物とどの程度の差があるのかは物によって違うとしか書かれていなかったからな」
「いや、これたぶん本物より凄いんじゃ……いろんな意味で」
ミオの魔法の直撃を受けたマクシスや、『裁き』を受けたカーンは、無傷でこそあったもののかなりの苦痛を感じてはいたらしい。しかしラータルトが『裁き』を受けた時は痛くも痒くもなかった――そういう意味ではこの石は本物を上回る力を持っているのだろうが、この石が放っているどす黒いオーラはどうにもいただけないとラータルトは思った。気を抜くと、オーラが負の感情となって心の奥底にまで入り込んでくるような気がする。
「それにしても、入ったはいいけどどうやって出ればいいんだろう」
「そうだな、歩き回って調べてみるしかないだろうな。実は今だから言える話だが、ここに飛び込んだのも別に深い考えがあってのことではないからな」
「いやとっくに気付いてたけどね。まあとりあえず生き延びたわけだしミオには感謝して……あれ?」
ラータルトはその場所から歩き出そうとしたが、「歩き回って調べてみるしかない」と言った張本人であるミオは、芝の地面に腰を下ろしたまま一向に立ち上がろうとしない。
「どうしたの? 調べに行くんじゃ――」
「困ったことになった」
ミオは、こんなことは初めてだといった表情でラータルトに告げる。
「なんか、足に力が入らなくて立てないのだ。いや待て、勢いをつければ、こう――よっ!」
小さな掛け声とともに、ミオは立ち上がった。しかし――
「なんか生まれたての小鹿みたいだよ」
必死の表情で、両足をぷるぷる震わせている姿は実は笑い事ではないのだろうが、普段の姿とギャップがあるだけに妙に可愛く見えて仕方なかった。
ラータルトはミオに近づくと、半ば強引に背負い上げた。いわゆるおんぶ状態であるが、身長がほとんど変わらないためお世辞にも背負いやすいとは言えない。
「無理をするな、重いだろう」
確かに見た目以上に重かった。レノアと比べると倍近くあるのではないかとすら思える。もっとも、重いとはいってもラータルト自身とそう変わらないので、一時間や二時間背負って歩く程度はどうということはないはずだ。
「これでも昨日より多少は軽くなったはずだが……」
「え、何か言った?」
「別に何も。少しは痩せたほうがいいのかと思ってな。王都では痩せている娘が好まれる傾向にあるというし」
「体のことを第一に考えるならこのままの方がいいんじゃないかな。見た目はまあ、流行とか全然わかんないからなんとも言えないけど、そもそもあの極端なのを例に挙げるのはどうかと」
極端な例としては、逆に大金持ちの平民の間では適度な肥満こそが富のシンボルらしいが、男も女も多くの者が『適度』を遥かに超えた、富を具現化したような体の持ち主となっている。そういう連中と比べるとミオは目立って痩せているわけで、その辺のことを全部言うのも面倒だったのでラータルトは一言でまとめた。
「僕はこのままの方が好きだな」
「そ、そうか? な、ならこのままというのもやぶさかではないな」
そんな話をしながら、ラータルトは広大な芝生の平原を歩いていた。
どこまで進んでも何も見えてこない。向かいの壁ははるか地平線の向こうにあるらしく、どこまで歩けばたどり着くのか見当もつかない。
とはいえ、感覚でわかる。延々と歩いてはいるが、別に同じところを何度もぐるぐる回っているわけではないし、この芝具の大地が無限に続いているわけでもない。ただ単純にだだっ広いだけで、歩いていればいつかはどこかにたどり着くはずだ。
「ところでさっきの石、どこで手に入れたの?」
黙っていても退屈なので、ラータルトはミオに話しかけてみるが返事がない。
「……ミオ?」
「……ああ、すまん。少し居眠りをしてしまった」
「あ、こっちこそごめん。起こしちゃったみたいで」
「お前の背中が寝心地良すぎるからいけないのだ。ところで何の話だ?」
「あ、うん。石をどこで手に入れたのかって」
「気になるか?」
ミオの問いに、ラータルトは少し考えてから頷く。
「買ったとしたらお金とかどこから出てるのかなって思って。だってあれってまともに買おうとしたら、レノアの家――ヨーデンブルク侯爵家だっけ? あそこの財力でもそう簡単には手に入らないんだよね」
「言っておくが、帝家の財産はレノアのものとは比較にならぬぞ? おそらくタマの荷車に積んであるだけでもヨーデンブルク家が三つは買えるに違いない」
そんなものを荷車に積んで持ち歩くというのも、考えてみれば物騒な話だ――とラータルトは思う。
「じゃああれは、その荷車の財宝を売って手に入れたの?」
「そうしようかとも思ったが、いくら金を積んだところで、さすがに昨日の今日であれほど貴重な宝石を譲ってもらえる相手が見つかるとも思えないしな。そもそも誰が持っているのかすら見当もつかなかった」
「じゃあ、どうやって――」
「少なくとも、石を買うのに金は一文たりとも使っておらぬ。それ以上は秘密だ」
「一文って何?」
「帝国の通貨だ。今では何の役にも立たぬが、終戦当時は王国の通貨に換算すると、一文で銅貨一枚ちょっとの価値だったはずだ」
無駄な知識が一つ増えたものの、肝心な石の入手経路は見当もつかない。
買ったのではないとすればどうやって手に入れたのか。考えられるとすれば、もらったか、拾ったか、盗んだか、新しく作ったかだ。
誰が持っているか見当がつかなかったといった時点で「もらった」と「盗んだ」は有り得ないだろう。それに、昨日の今日で「拾った」などという都合のいいことがあるはずもない。そして「作った」のなら、あれを作るには大量の処女の生き血が必要なわけで、それこそ昨日の今日で手に入るはずがない。第一、いくらラータルトを救うためとはいえ、ミオが他人の命を危険に晒してまで血を手に入れようとするとは――
全てが繋がった。何もかも納得した。
ラータルトは思わず頭を抱える。
「……昨日より軽くなったってそういうことか。そりゃ確かに死ななかった人もいるわけで、だったらミオも生き残るだろうとは思うけど、そんな状態で夜通し天井裏からぶら下がるとかもっと自分の命とか体ってものを大事に――」
「待てラータルト、向こうに何か建物が見えないか?」
「話を逸らさないでよ――って」
そう言いながらも思わず目を凝らすと、確かに何か、それまでただ青々としていた地平線に、何か異物のようなものが見当たる。
「ほんとだ。ほとんど点にしか見えないけど、よくあれが建物だってわかるね」
はるか遠方の前方、ラータルトの目には文字通り点にしか見えないが、どこまでも広がる広大な芝生の大地の中に、確かに何かがぽつんとある。
「あそこに誰かいるのかな?」
「教会の言うことが正しいのなら、あの中に誰かがいるとすればただ一人。奴らの親玉中の親玉だろう」
「それって『天使』――?」
ラータルトは思わず息を呑む。
ユニエンジェル教会が唯一の存在として崇める『天使』。そもそも教会の存在意義が『天使』を守護することであり、そのため天使の住まう塔は厳重に護られ――その割には、成り行きとはいえこうして簡単に外敵の侵入を許してしまったわけで、教会の存在意義とやらも怪しいものではある。
いずれにしても、他に目指すべきあてもない。ミオを背負ったラータルトはその点に向かって歩き続けたが、点が点以外の何かに見えるようになるまで、実に一時間近くも歩く羽目になった。どうやらこの空間には昼夜の区別がないらしく、青い空はいつまで経っても青いままだ。空のてっぺんにある太陽はぴくりとも動かない。
ミオの言った通り、それは建物だった。小さな家と、大きな風車の組み合わせである。不思議なことに、風がほとんどないにも関わらず、風車はゆっくりと、しかし止まることなく回り続けている。近くには小川が流れていた。どこから流れてきて、どこへ流れていくのかわからないが、水は有り得ないくらいに清く澄み切っている。
「飲んでも大丈夫なのかな、これ?」
「ちょっと降ろしてくれ」
言われてラータルトはミオを降ろす。まだ若干足元はふらついているが、とりあえず歩けるまでに回復したらしい。
ミオは小川に近づき、しゃがみ込んで両手で水をすくってみる。少し口をつけ、味見した後で残りを一気に飲み込む。すると、先ほどまで青白かったミオの顔色が一瞬で生気に満ち溢れ、ふらついていた足元にも力強さが戻ってきた。
「ふむ。どうということのない普通の水だ。しかしおかげで生き返った気分だ」
「いや違うからそれ! どう考えても普通の水じゃないから!」
ラータルトは思わず大声で反論する。
その声に反応したのか――遠くから一つの人影が姿を現した。