二人は思わずそちらに視線を向ける。
 それは少女だった。ぱっと見、かなり可愛くて美人でもあるが、それ以外はどうということのない普通の少女だ。
 金髪で色白で青い瞳、という点はレノアに似ていなくもないが、全体的な雰囲気は明らかに異なる。柔らかそうな体のライン、まだあどけなさを残した表情、優しい桜色のくちびるに、そして怖いくらいに澄み切った眼差し。そんな少女の雰囲気に、ゆったりとした純白の衣はとてもよく似合っていた。
 その姿を見た瞬間、ラータルトはまた一つ、失われた記憶の欠片を取り戻したことに気付いた。もちろんこの少女に会うのは初めてだ。しかし間違いなく見たことはある。直接ではない、どこかで見た絵だ。
 その絵に描かれている少女の姿は、目の前の少女の姿とはだいぶ違う。絵の少女の頭上には輝く光輪があり、身にまとう豪奢な衣もやたらとひらひら舞い上がっていて、背景にはラッパを持った赤ん坊が浮いていて、背中には巨大な翼が六対くらい生えていた。
 もちろん目の前の少女の後ろにはラッパを持った赤ん坊など浮かんでいないし、頭の上には光輪もないし、身にまとう衣も質素なものだ。絵の少女との共通点は二つ――一つは顔。はっきりとは思い出せないがとてもよく似ていたはずだ。そしてもう一つは、六対ではなく一対で、間違ってもこれで空が飛べるとは思えないほど小さいものではあるが、とにかく背中に純白の翼が生えていること。
 その絵のタイトルを、ラータルトは思わず口にした。
「『舞い降りる天使』――」
 その言葉が聞こえたのか、少女は口を開いた。
「ロートルジェム以外の方がここを訪れたのは初めてです。ミオさん、ラータルトさん。『天使の塔』にようこそいらっしゃいました」
 少女が、そういい終わるか言い終わらないかという瞬間だった。
 それまで呆然としていたミオが、突然表情を強張らせ、少女に向かって詰め寄る。
「お前が『天使』か?」
「教会の方々が『天使』と呼んでいるのが私のことかという意味でしたら、その通りです」
「回りくどい言い方はよせ!」
 ものすごい剣幕に、ラータルトは思わず腰を抜かしそうになった。しかし少女の方は相変わらずの無表情である。
 そんな少女の胸倉を掴み、ミオは力任せに持ち上げた。少女の両足が地面から浮き、さすがに今度は苦しそうな表情を見せる。
「つまりはお前が全ての原因というわけだな。教会が存在し、神官戦士が人を殺し、私の親を殺してハジメにあんな思いをさせた元凶が――」
 もはや完全に冷静さを失ったミオは、片腕だけでさらに少女の体を高く持ち上げる。少女はほとんど息ができないようで、何かを呟いているが声になっていない。しかし、そんな状況になっても、少女は暴れることはおろか、抵抗するそぶりすら見せない。
 さすがにこれは止めないとまずい、と思ったラータルトは、ミオに声をかけるべく踏み出した。
 その時、苦しそうな少女と目が合った。

 またあの感覚だ――そう思った時には、ラータルトの体は勝手に動いていた。
 その場で駆け出したラータルトは、ミオに思い切り体当たりを食らわせた。背後からの奇襲など全く予期していなかったのだろう、ミオは少女から手を離して派手にすっ転ぶ。
 放り出された少女の体を空中で受け止める。軽くて、とても柔らかかった。ほのかな香りがラータルトの鼻をかすめる。
 地面に降ろした少女を後ろにかばう。そして、受身を取って立ち上がったミオに向かって腰の剣を抜き放ち――
 ラータルトはふと我に返った。
 背後で苦しそうに息を荒くする少女、いまだ冷静さを取り戻していないミオ、そしてミオに向かって剣を抜き放とうとしたラータルト。もしラータルトの剣がカーンに取り上げられておらず、いつも通りの場所にあって抜き放つことに成功していたら、そのままの勢いでミオに向かって斬りかかっていたかもしれない。
 それを悟った瞬間、ラータルトの体は恐怖で震え始めた。
 確かにミオが冷静さを失っていて、止めなければいけなかったのは事実だ。しかしあの全力での体当たりは、素人相手なら間違いなく怪我をさせていただろう。そして何より自分で信じられないのは、事もあろうに自分がミオに向かって剣を抜こうとした事実だ。
 一方、今の一撃でミオは少し冷静さを取り戻したようだ。だが、その瞳は相変わらず怒りに燃えていた。
「――私としたことが熱くなりすぎたようだ。だが勘違いするな、別に私はお前を許したわけではないぞ」
 もちろん、その言葉はラータルトの背後にいる少女に向けられたものだった。
 自らのしたことに恐れおののくラータルトを無視して、ミオは再び少女に詰め寄る。さすがに今度は胸倉を掴み上げるような真似はしなかったが、怒りと憎しみのこもった視線を正面からぶつける。
「教会がお前を守ろうとするのは結構なことだ。だがそのために自分に従わない者を虐殺する必要がどこにある? 聞けは、ハジメの命を狙ったのは天帝の血を絶やすためだったというではないか。天帝が神のごとく崇められているのがそれほど気に食わなかったというのか?」
 しばらくは苦しそうに息をするだけだった少女だが、ようやく呼吸が落ち着いてくると、今度はその顔からゆっくりと表情が消えていった。
「……」
「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ!」
「……さ……」
 よく聞き取れなかった。ミオは少女を警戒しながらも、言葉を聞き取るためにさらに顔を近づける。
 ラータルトも、思わず息を呑んで成り行きを見守る。
 いきなり、少女はミオに飛びついて叫んだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! わ、私は、私は……何も、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
 ラータルトはもちろん、ミオもいきなりの叫びに一瞬だけ呆然としたが、すぐに我に返って少女に尋ねる。
「何がごめんなさいだというのだ、はっきりと口に出して言ってみろ」
「私は、全て知っていました。でも、何もできなかった。ロートルジェムが来たら言うつもりだった。だけど彼は来ないまま、私は見ていることしかしなかった。教会が次々と敵対勢力を滅ぼし、異教徒に残酷な仕打ちを繰り返すのを――帝国だけじゃなかった、いろんな国を、私を守るという名目で――」
 それきり少女は、涙を流しながら嗚咽を繰り返すばかりで、意味のある言葉を口から出すことができなかった。本人にそのつもりがあるのかないのかはわからないが、ミオの胸にすがりついて泣いているような格好になっており、これにはさすがのミオも困惑を隠せなかった。
「あの、ちょっといいかな?」
 そんなミオに代わって、ラータルトが恐る恐る口を挟む。
「ロートルジェムっていうのは、守護聖皇の名前だよね?」
「……彼はそう名乗り、教会でもそう呼ばれています。私を守るために教会を設立し、この不思議な塔を建造させた人です」
「えっ、ちょっと待って、教会の設立って五百年以上も前――じゃなかったっけ?」
「彼は八十歳くらいに見えますが、実際には五百歳を越えています。もっとも、ここ百年ほどは特別な時以外はずっと氷漬けで眠っていて――」
「そ、それじゃあ君も……?」
 ラータルトの言葉に、少女は首を横に振った。
「この塔の中は、時間の流れが外と異なっています。だから少なくとも五百歳ってわけではないです。十五歳の頃から成長も老化もしていないので、見た目よりだいぶ歳は行ってると思いますけれど……」
 確かに少女の見た目は十五歳くらい、つまりミオよりやや年下に見える程度だった。話し方も、言葉遣いは丁寧ではあるけれど、外見の年齢とあまり差があるようには思えない。
「ってことは、君は実際は天使なんじゃなくて、単に羽根が生えただけの人間なの?」
「それは……正直、私自身にもわかりません。私には、普通の人間には有り得ないような力がありましたから」
 有り得ないような力とは何か、そしてなぜ過去形なのか――わからないことだらけで、何から尋ねたらいいのかわからなかった。
 そんなラータルトの気持ちを読んだように、少女は説明を始めた。
「私がどうやって生まれたのか、実は知らないんです。気付いたら一人だった。そして、私は不思議な力を持っていた――それは、口にしたことが全て現実になる、という力です」
「口にしたことが、現実に? それって願えばなんでも叶うってこと?」
「正確に言えば、あらゆる偶然が、私が口にしたことを現実にする方向に働く、というもの――ロートルジェムはそう言っていました。だから不可能なことはもちろんありました」
「でも、口にしたことがほとんど現実になっちゃうなら、むやみに口を開くことすらできなかったんじゃ……」
 ラータルトの言葉に、少女は悲しそうに目を伏せた。
「その通りです。だから私は、どうしてもという時以外は常に口を閉ざし、会話も身振り手振りでやっていました。しかし、私の存在は瞬く間に大陸中の噂になり、ありとあらゆる国から狙われる羽目になりました」
「ありとあらゆる国から?」
 ラータルトに疑問に、少しずつ冷静さを取り戻してきたミオが答える。
「その力とやらを利用しようとした国もあっただろうし、そういう国に力が渡るのを防ごうと考えた国もあるだろう。そんな恐ろしい力が存在するのなら、うまく利用すれば全てを支配することも容易になる。自らがそれを使うかどうかはともかく、他の国がそんな力を手にするのを指をくわえて見ている国など存在するわけがないからな」
「なるほど、さすが現役の天帝」
 ミオの言葉に少女も頷き、そして説明を続ける。
「いっそそんな邪悪な力など存在しなければいい――そう思った人も大勢いたらしく、私は何度も命を狙われるようになりました。そしてそのうち、私自身もそう思うようになりました」
「そんな状況から救ってくれたのが、今の守護聖皇というわけだな?」
「はい。彼は歴代の太夢天帝に勝るとも劣らない大魔導士でした。私の身を守るため、私の存在を『天使』ということにして、私を守るための組織として『ユニエンジェル教会』を結成し、さらにはこの塔を建造した――この塔の中であれば私の力は抑えられ、何かを口にしてもそれが現実になるようなことはありません。私は生まれて初めて、自由に話ができるようになりました」
 ラータルトとミオは周囲を見回した。美しく、ひたすら広い空間。おそらくロートルジェムは、塔という限られた世界で彼女が過ごしやすいように、可能な限り広大で美しく過ごしやすい空間を作り出そうとしたのだろう。
「塔には様々な機能があります。例えば、私はこの中でなら世界で起きる全ての出来事を知ることができます――塔で退屈しないようにと、そして封じられた私の力が暴走しないための使い道として、ロートルジェムが取り付けた機能です。そして外敵から――当時は主に私の力を狙う国家から身を守るため、近づく者に容赦のない死を与える防御装置も取り付けました。今では、教会が戒律を破った者に対する『裁き』として利用していますが……」
 少女は声のトーンを落とした。同時に肩も落とし、消え入るような声になる。
「ロートルジェムは完璧主義者でした。この世の何よりも硬い壁に囲まれ、近づけば『裁き』の下るこの塔の守りは完璧に近いものです。しかし彼に匹敵するような力を持つ大魔導士が現れれば、塔の守りを突破して突入されるかもしれない――そう考えた彼は教会の権力を利用して、大陸とその周辺における魔法そのものの使用を制限しようとしたのです。そして、それに従わない者を異端者として迫害し、場合によっては消してしまう――教会が帝国と戦うことになったのも、まさにそれが理由でした」
 しかし、ロートルジェムの目的がそれであるならば、完全に裏目に出たことになる。教会が帝国を滅ぼしたからこそ、彼に匹敵する力の持ち主である当代の天帝すなわちミオが、成り行きとはいえこのように塔に侵入する羽目になったのだから。
「もちろん彼には、あそこまで徹底的に帝国で虐殺を繰り広げるつもりはありませんでした。しかし、もはや教会は彼一人に制御できる規模をはるかに越えた規模にまで膨れ上がっています。マグナルダ・カーンをはじめとする好戦的な幹部神官たちが、功を競うかのごとく虐殺を繰り広げ、ついには当時の天帝を追い詰め――」
 その後のことは二人ともよく知っていた。追い詰められた第七十六代天帝は、神官戦士を皆殺しにすべく禁断の魔法に手を出し、結果として神官戦士のみならず多くの帝国民をも犠牲にし、帝国領は死の大地となったのだ。
 ミオは深くため息をつくと、少女に向かって告げた。
「もはや誰が悪いとかそういう次元ではないな。一体私は、抑えきれないこの怒りを誰に向ければいいというのだ?」


Prev<< Page.16 >>Next