幼い女の子だった。
 その背後には、さらに幼い男の子が横たわっている。この男の子こそが、今回の最大の目標である天帝の孫に違いない。そんな男の子を守るように、女の子が立ちはだかっている。おそらく男の子の姉であり、そして先程殺した女性の娘なのだろう。
 何のことはないただの女の子だ。親も死んだのだから、一緒に殺してやるのがせめてもの慈悲というものだろう。
 そう考えて足を踏み出そうとした。しかしできなかった。
 女の子は必死だった。何が何でも弟を守ろうとする意志が、見えざる壁となって立ちはだかっている。見覚えのある光景だ。何が何でも守る存在。まるで『天使』を守るエンジェルハンドのような――
 そこで、疑問に思ってしまったのがいけなかったのかもしれない。
 この女の子は異教徒だ。でも自分と何が違うのだろう? 弟を守ろうとするこの女の子の意志が邪悪なら、自分のしていることは――
 女の子は自らの正義を微塵も疑っていないようだ。自分も今まではそうだった。それこそが強さの源だったのだ。だが今、それが揺らぎつつある。
 彼女の目から見れば、自分の姿は母親を殺した悪魔にでも映っているのかもしれない。しかしこれも『天使』のためなのだ。そう自分に言い聞かせ、前に足を踏み出そうとする。
 だが、女の子の眼差しはそれを許してくれない。
 情をかけるべきでないことはわかっている。ここで二人を見逃したところで誰も幸せにはなれない。親を失ったこの二人が、戦乱の中を生きていこうとすれば、死ぬより辛い目に遭うに違いないのだから。
 このまま女の子の目を見ていては決意が鈍る。あくまで目標だけを見ることにした。女の子の背後に隠された男の子、最優先に始末するべき天帝の孫の姿を。
 そうだ、女の子の目さえ見なければ何も怖いことなどない。そのまま一歩踏み出した。

 自分が致命的な間違いを犯したことに気付いた時には、すでに手遅れだった。
 ほんの少し、目を離しただけだったのだ。女の子はそれを見逃さなかった。どこに隠し持っていたのやら、女の子は渾身の力を込めて、一本の包丁を投げてきた。
 それは、小さな女の子の腕から放たれたものとは思えないほどのスピードだったが、しかし所詮は包丁である。鎧を貫けるようなものではないはずだ。そう思ったのもあったが、そもそも避けようとしたところで避けきれたかどうかは怪しい。
 ここに来て、初めて『天使』は自分に味方しなかった。
 先程の戦いで女の子の母親に傷つけられた、まさにその部分に、女の子の投げた包丁が突き刺さったのだ。
 偶然にしてはできすぎだった。
 不思議と痛みは感じない。鎧から血があふれ、体から力が抜けていく。しかし何より、エンジェルハンドである自分がこんな年端も行かぬ女の子に敗れたという事実が信じられなかった。
 正しい行いには、常に『天使』が味方する――それが教会の教えだ。しかし今この場で『天使』がどちらかの味方をしたとすれば、間違いなくこの女の子の味方だった。
「どう……して……こんなことが……『天使』よ……」
 それだけ言うのがやっとだった。もはや姉弟に一瞥もくれることなく、よろよろと屋敷を抜け出した。

 街の最強集団である神有月家が落ちたためだろう、街の住人達は戦意を失い、自分と同時に突入した神官戦士たちは街の制圧に成功したらしい。
 徹底的な捜索が行われたが、幼い姉弟の姿はついに見つからなかったという。
 そしてそれ以外の異教徒はほとんどが戦死し、生き残った者も一人残らずその場で処刑された――その話を聞いた頃には、もはや自分は何も信じられなくなっていた。

 *

 ラータルトが目を覚ますと、窓の外は真っ暗になっていた。
 いつの間にか誰かが毛布をかけてくれていたらしい。でなければ風邪を引いていたところだ。そのまま身を起こし、辺りを見回す。
 隣のベッドではミオがぐっすりと眠っている。そもそも家族でもない男女が同じ部屋で眠るというのはどうかとラータルトは思うのだが、「別々の部屋では護衛にならないではないか」というミオの主張により同じ部屋に寝ていたのである。よくよく聞き質してみると、どうやらミオは部屋に一人きりで寝るのが寂しいらしいのだが、本人は頑として認めようとしない。
 ラータルトとて大人の男である――たとえ少年のような外見だとしてもだ。ミオの健康的な色気に欲情を感じないはずもないのだが、それを抑えるだけの分別は持ち合わせている。
 しかし、今はそんな欲情すら感じなかった。先程見た奇妙な夢のせいだ。内容はよく覚えていないが、誰かと戦っていたような気がする。
 その時、窓の外でかすかな物音がした。
 普通なら気付かない程度のものである。実際、ミオはぐっすりと眠りこけていて起きるそぶりすら見せない。だが、風の音などではあり得ない、明らかに人間が立てたであろう音に、たまたま目を覚ましていたラータルトだけが気付いた。
 窓の外に目をやる。こちらが気付いたことに気付いたのか、ホテルから逃げていく一つの人影が目に入った。
 ラータルトは窓を開け、人影を追って飛び出した。ここは四階ではあるが、足場は十分にあるため壁伝いに降りていくことは容易だった。そのまま大通りに出て逃げる人影を追っていく。
 全速力で追っているつもりだったが、人影は近くもならなければ遠くもならない。やがて人影は街の外壁を乗り越え、そのまま王都の外にまで飛び出していった。
 ここで追跡をやめても良かったのだろうが、背後関係が気になる。相手の狙いがミオと自分のどちらなのか、誰の手の者なのか。普通に考えれば教会関係者だろうが、どうも嫌な胸騒ぎがする――
 街の外の荒地を、ラータルトは人影を追ってひた走る。しばらくは同じ距離を保っていたが、ある広い丘に出た時点で、不意に人影を見失ってしまった。
「さすがにここから追うのは無理か――」
 ラータルトはそう判断して、走るのをやめた。もしこれが陽動で、相手の狙いがミオだったとすればあまり長いこと留守にするのはまずい。もっとも、大きな音を立てて出てきたからミオは目を覚ましただろうし、目を覚ましたミオを闇討ちするなんて芸当は自分にだって無理だ。そう考えれば特に心配することもないのだろうが――
 だが、きびすを返した瞬間、背後に恐ろしい殺気を感じた。
 慌てて振り返ろうとした瞬間、首筋に鋭い痛みを覚える。
「な、なんだ?」
 周囲は真っ暗で、人の姿は見当たらない。
 すると、唐突に声が空から降ってきた。
「どこを見ておる。ここだここだ」
 慌てて見上げると、そこには一人の老人が浮かんでいた。
 思わず呆然とするラータルトだったが、よく見ると見覚えのある顔だ。
「あんたは……帝国領にいた人?」
 口に出してみて確信した。それは帝国領で、記憶を失ったラータルトが最初に出会った、あの老人だった。確か老人はあの時も空を飛んでいた。
 老人は、唐突に意味不明なことを口走る。
「夢を見ただろう?」
 その言葉を理解するのに、ラータルトはしばしの時間を要した。
「……どういう意味だ? 確かに夢は見た。内容はよく覚えてないけど」
「あれはわしが見せた夢だ。お前は、なぜ自分が記憶を失ったのか知っているか?」
 またも意味がわからない。もちろん、思い当たる節など何もない。
「そろそろ思い出させてやろう。まずは記憶の話だが――お前の記憶を奪ったのは他でもない、このわしだ」
 突然の老人の告白に、ラータルトはただ呆然とすることしかできなかった。
「そもそもお前はどうして帝国領に流れてきたのか覚えているか? まだそこまでは思い出せぬか。何のことはない、お前は罪滅ぼしをするために帝国領にやって来たのだ」
「ちょっと待ってくれ、何の話なんだ?」
「だが帝国のあの有様を見て、お前は罪滅ぼしが遅きに失したことを知った。絶望したお前は自殺しようとし――それを見かけたわしが、自殺を止めるために慌てて記憶を奪ったのだ」
 何とか思い出そうとする。
 少しずつ思い出してきた。確かに自分は絶望していた。それゆえに自ら命を絶とうとした。
「わしは最初、何も知らんかった。お前が絶望して自殺しようとしているのを見て、それを止めるべく慌てて記憶を奪った――もちろん一時的なものだ。何ヶ月かすれば解けるような、その場しのぎの術に過ぎない」
 確かにラータルトの記憶は、今でも少しずつではあるが戻りつつある。しかしいまだにフルネームすら思い出していないし、このままでは老人の言う通り、記憶が完全に戻るには数ヶ月はかかるだろう。
「真に自殺を止めるためには、絶望の原因そのものを何とかしなければならん。そのため、わしはお前から奪った記憶の内容を覗いた――そしてわしは激しく後悔した。わしはお前を助けるべきではなかったのだ」
「……なんだって?」
「しかし、よく考えればこれはまたとない好機だと思った。積年の恨みを晴らす絶好の機会だ。お前が感じた絶望を、何倍にもして味わわせてやる好機だと!」
 話が見えてこない。しかしわかったことが一つある。この老人は、自分のことを心の底から恨んでいるのだ。おそらく誤解でも何でもない、極めて正当な理由で。
「お前は覚えていないだろうな。あの時、神有月の屋敷で斬り捨てた近衛隊がどんな奴だったかなど。実際お前の記憶の中にも残っていなかった。あの中にわしのたった一人の息子がいたところで、誰が誰だったかなどわかるまい!」
「斬り捨てた? 僕が? ちょっと、何を言って――」
「だがお前は別のことに罪悪感を覚えていた。だからそれを利用させてもらうことにしたのだ。お前はあの時知らなかったようだが、お前が罪滅ぼしをしようとした相手――神有月ミオはあの時、お前のすぐそばにいたのだ。わしがしたことはただ一つ、お前とあの天帝とをめぐり合わせてやっただけだ。あとはお前が記憶を取り戻せば、それで復讐が完成する!」
 ここまで来れば、さすがにラータルトにも話が見えてきた。
 しかし、脳が理解を拒否する。おぼろげな記憶は老人の言葉を肯定する。相反する思考の板挟みとなり、ラータルトは微動だにできない。
「お前と天帝が出会えば、このようなことになることはわかっていた。互いに支えあい、信頼し合い、うまく行けば恋愛沙汰にすらなるのではないかと期待していた――さすがにまだそこまでは行っていないようだがな」
「まさか、僕が――」
「そのまさかだよ。お前こそが天帝の追っていた仇だ! そのことを知った瞬間お前はどうなるか――そして天帝はこれまでに蓄積した恨みの全てをお前に向けるだろう。天帝の怒りだ! 地獄に落ちるがいい!」


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