世界が真っ暗になった。
 あの夢を見た時点で気付くべきだった。老人の言葉を否定する材料は何もない。
 自分がミオの仇についてマグナルダ・カーンに尋ねた時のあの反応。記憶を失った時に持っていたあの剣と、エリシアから新たに与えられた剣が同じものだったこと。何もかも辻褄が合う。だが、たった一つだけわからないことがある。
「……どうして、今なんだ?」
 ラータルトは、ほとんど声になっていない声で尋ねる。
「僕はまだ記憶を取り戻していない。あんたの言うことも、理解はできても実際に思い出したわけじゃない。どうして今、あんたは僕に真実を告げたんだ?」
「元々は天帝にお前を殺させるつもりだった。だが、どうしても我慢ができなくなてな。わしが自ら引導を渡してやろうと思い立ったのだ」
 納得できる理由だ。しかし、一つだけ言っておかなければならないことがある。自分にそれを言う資格などないにしても、だ。
「だったらどうしてミオを巻き込むんだ! 僕が、僕がミオの家族を殺した仇だってミオが知ったら、ミオは――」
「そうやってお前を苦しめるためだ。お前のせいで天帝が傷つく、おそらくお前にとってそれ以上の苦しみはあるまい?」
 老人の言葉は残酷なまでに事実を指摘していた。確かにラータルトにとってそれ以上の苦しみはない。
「だが安心しろ。お前は天帝が苦しむ姿を見ることなく、このわしの手によって殺されるのだからな。その後天帝がどうなろうとわしの知ったことではない」
 老人は地上に舞い降りる。思わずラータルトは身構えようとするが、体が全く動かない。
「な、なんだこれは……」
「首筋に痛みを感じただろう? あれは毒の吹き矢だ。この毒に冒された者はまず体が麻痺して動かなくなり、次第に呼吸もできなくなり、最後には心臓が止まって死ぬ――」
 そう言いながら、老人は懐から一本の短刀を取り出した。刃の部分がやたらとギザギザした、いかにも切れ味の悪そうな短刀である。
「だが、この毒での死はさほど苦しいものではない。それではわしの気が済まんのでな、呼吸が止まって意識を失う前に、わしがこの刃で地獄の痛みを与えながら殺してやる。あの世で息子に詫びるがいい!」
 老人は短刀を振り上げる。ラータルトは思わず目を閉じようとするが、それすらもできない。
 このまま死ぬわけにはいかなかった。自分の罪が死に値する、という点には異論はないが、死ぬのであれば記憶を完全に取り戻し、自分が過去に犯した罪の全てを思い出し、そのことを詫びてからでなければならない。それがこんな中途半端な形で――
 薬が回ってきたのだろう。呼吸が浅くなり、意識が遠くなる。老人の狂ったような叫びに混じって、何やら別の人間の声が聞こえる。
 薄れ行く視界の中で、何かが輝いた。無数に舞い降りたそれは、さながら赤い蛍のような輝きを――

 まさに短刀を振り下ろそうとした老人の胸で、それは大輪の紅い花を咲かせた。その凶悪ともいえる光が老人の全てを呑みつくし、全てを塵芥と化すのを見届けた瞬間、ラータルトの意識は途絶えた。
 最期の瞬間、老人の顔には何かを成し遂げた者のみが見せる、実に満足そうな笑みが浮かんでいた。

 *

 また夢を見ているらしい。
 先程と違うのは、これが夢であると自覚できることだ。
 全身が氷のように冷たい。ゆっくりと、ゆっくりと、ラータルトは自分が暗い闇の底に沈んでいくのを感じていた。
 このまま沈んでいけば、地獄にたどり着くのだろうか。既に呼吸は止まっている。間もなく心臓も止まるだろう。確かにあの老人が言った通り、苦痛は感じなかった。
 記憶を奪った張本人である老人が死んだせいだろう、闇の中に記憶の欠片が浮かんでいる。手を伸ばして触れようとするが、夢の中ですら体は動かない。
 それらは過去の記憶だ。
 育成施設での記憶。弱い者、役に立たない者は死ねと言われた。『天使』を守るために邪悪な異教徒と戦うことこそがお前らの存在意義だと、毎日そう言われて育ってきた。
 エンジェルハンドに任命された時の記憶。神官や信徒たちに、救世主として喝采を浴びた。だが自分を見つめるその視線には、尊敬よりも畏怖が込められていた。
 あちこちの敵地に送られ、その度に異教徒からは悪魔と呼ばれてきた。そして帝国に送られた時、生涯で最初の敗北を経験することになった。
 それから戦えなくなった。命令は全て拒否した。投獄され、処刑される寸前に脱走し、裏切り者として追われる身となり――
 八年もの間逃げ回り、ようやく教会が諦めの色を見せた頃を見計らって、帝国を訪れた。だが、死の大地と化していた帝国に住む人間はほとんど死に絶え、あの女の子の生存は絶望と思われた。
 エンジェルハンドとしての存在意義を失い、最後に残された罪滅ぼしの道すらも断たれたラータルトに、もはや生きる意味などなかった。岬から身を投げようとした瞬間、背後に老人が現れて――

 思い出せるのはそんな断片ばかりだった。
 その間に誰と出会い、誰と心を通わせ、誰の命を奪ってきたのか。それを思い出すにはまだまだ時間がかかりそうだ。そして、その時まで自分は生きていないだろう。
 もはや心臓も止まっているらしい。あと数分もしないうちに、自分の魂はあちら側に引き渡されることになる。あちら側というのは間違いなく地獄だろうが、自分がこれまでに犯したであろう罪の重さに釣り合う地獄など存在するのだろうか。
 ふと気付いた。闇に沈み続けていた体が、ここに来てぴたりと動きを止めている。
 突然、熱い奔流が全身を襲った。冷たかった全身、心臓、指先の温度が一気に上がっていく。
 まるで、生命力そのものを直接注ぎ込まれているかのようだ。注ぎ込まれた生命力は次第に抜けていくが、抜け切る前に新しいものが注がれる。規則正しく、力強く。
 ラータルトを包む闇が次第に薄くなり、視界が光に包まれていく。
 熱い息吹が口から注がれる。まるで風船でも膨らませるかのように。それは再び息を吹き返すための活力となって全身を駆け巡り――

 *

 目を開けた。
 光に包まれていた夢の世界と違って、真夜中であるこちらの世界は暗かった。おまけに目覚めたばかりで目の焦点が合わない。なぜだか知らないが、どうやら自分は助かったらしい――ラータルトがそう自覚した瞬間だった。
 口からいきなり熱い空気が流れ込む。自力で呼吸を再開しようとしていた肺が、無理矢理押し広げられる。
 そして、ようやく焦点の合ったラータルトの目に映ったものは、密着しそうなほどの距離にある少女の顔だった。
 というより密着していた。目の前の人物の唇と自分の唇が、しっかりと組み合わさっていた。
 ここで肺が悲鳴を上げた。ラータルトは思わず顔を離すと、地面に横向きに丸まって猛烈に咳き込んだ。
 口の中が、自分のものか相手のものかわからない唾液まみれになっていることに気付く。どうやら相当長い時間、口から直接息を吹き込まれていたらしい。
「ようやく目を覚ましたか。やはりあの毒に間違いなかったようだな」
 聞き覚えのありすぎる声だった。
 ようやく身を起こすと、そこにはいかにも寝起きで寝巻きのまま飛び出してきましたという姿のミオが、涙目になってこちらを見つめていた。
「あ、ああ今のはあれだ、帝国に古くから伝わる心配蘇生法だ。お前が刺された吹き矢の毒は呼吸や心臓をも止めてしまう強烈な麻痺毒だが、この量ではそれほど長くは効かぬからな。今のように外から息を吹き込み、さらに心臓に刺激を与えてやれば息を吹き返すこともある」
 いつもよりだいぶ早口でミオは告げる。この暗さでは表情がよくわからない。
「ところで先程の老人は一体何なのだ? もう少し早く追いついていれば、生きたまま捕らえることもできたかもしれぬが……」
 ラータルトは慌てて老人が立っていた方向に振り返る。そこには焦げた土のクレーターがあるばありで、老人の姿は文字通り影も形も見当たらない。おそらく跡形もなく吹き飛んだのだろう。
「しかもあの毒は帝国でよく使われていたもの――まさか、帝国領で生き残っていたあの謎の老人か? しかし奴がなぜラータルトの命を狙うのか見当もつかぬな。奴はお前に何か言い残していないか?」
 もちろん言い残している。今、ここで全てを洗いざらいぶちまけてしまったらどうなるか――そんな考えを慌てて頭の中で打ち消す。
 ラータルトはとっさに口に出していた。
「ミオ、先に部屋に戻っててくれる?」
「構わぬが、お前はどうするのだ? まだ毒が抜け切っていないからまともに動けぬはずだぞ」
「どうしても、今すぐに調べたいことがあるんだ」
「……そうか。私は中途半端に起こされて眠いから、先に帰って寝ているぞ」
 そう告げると、ミオはクレーターに向かって手を合わせ、しばらく黙祷を続けた後、いかにも眠そうな足取りで元来た道を戻っていった。

 半分は本当だった。
 だが残りの半分は、単にミオの顔を見ているのが辛かっただけだ。
 この期に及んで逃げるのか。自分は正真正銘の意気地なしだ――そんな思考がラータルトの頭の中を駆け巡る。
 自分の記憶を奪った老人が死んだ今、ふとしたきっかけがあれば、簡単に全ての記憶を取り戻せるかもしれない。おそらく、エンジェルハンドに関する記録が中央神殿の図書館あたりに残っているだろう。その記録に触れれば、何らかの手がかりになることは間違いないはずだ。
 今から中央神殿に向かえば、徒歩でも明日の日中にはたどり着くだろう。そこで何もかも思い出す。そして全てを思い出したら――ミオに全てを告げよう。
 自分は殺されるかもしれない。ミオが自分を信頼していればしているほど、彼女は深く傷つくだろう。黙って姿を消すべきかとも思うが、あのミオのことである、間もなく自力で真実を探し当てるだろう。そうなれば余計に傷が広がるのは目に見えている。
 中央神殿に向かう夜道で、ラータルトはミオの熱く柔らかい唇の感覚を思い出していた。最初で最後の感覚。しかしラータルトを仇だと認識したミオが、後にあの出来事を思い出した時どう思うのだろうか――それは、あまりにも苦い想像だった。


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