遡ること一時間ほど前――
ホテルの廊下で、ミオはレノアの姿を見かけ、声をかけようとした。
レノアの方もミオの姿に気付いたらしく、視線が合った。いつもならここで「ご機嫌はいかがかしら?」などと声をかけてくるのはレノアの方なのだが、今日は違った。
レノアは慌てて視線を逸らし、何も気付かなかったふうを装って足早に立ち去ろうとしたのである。
「待て」
ミオの声に、レノアの肩がびくっと震える。そしてあからさまにぎこちない表情でレノアは振り返った。
「ご、ご機嫌はいかがかしら?」
「今私を見て逃げようとしただろう」
「そ、そんなことはありませんわわたくしは普段からあなたのことなんて別に眼中にありませんのよ自意識過剰もたいがいにして下さらない?」
早口でまくし立てるレノアを、ミオは無表情で見つめている。
「な、なんですのその目は?」
「いや……つくづくお前は嘘が下手だと思ってな」
「あら、わたくしには何もやましいことなどありませんわ。わたくし忙しいんですの。用がないなら失礼しますわ」
「ところでエンジェルハンドに関する調査は進んでいるのか?」
その言葉に、レノアの表情が一目でわかるほどに凍りついた。
「ほう、何か私に知られてはまずいことが出てきたようだな。これは是が非でも聞き出さねばなるまい」
ミオの顔は笑っていた。しかし目は笑っていなかった。
「レノア様っ!」
ものすごい形相でミオの部屋に駆け込んできたのは、ミオが呼んだ人物すなわちレノアの従者・バートン氷室だった。
「そのまま動くな」
ミオの冷たい声に、氷室の動きが止まる。
氷室の目の前には信じられない光景が広がっていた。
部屋の中央に椅子が一つ。その椅子にレノアが座っている――というより、荒縄でぐるぐる巻きにくくり付けられている。その背後にはミオが立っており、右手に刀を、左手に果物ナイフのような小さな刃物を持っていた。
レノアは既に全身傷だらけで、顔は痣だらけになっている。いかにも高価そうな絹の室内着はもはや見る影もなく引き裂かれている。
「確かエンジェルハンドに関する件は、お前が調査していたのだったな?」
ミオは氷室に向かって問いかけた。
「レノア様に――レノア様に何をしたのですか」
氷室の声が震えている。無論、怒りで震えているに決まっていたが、ミオは見てみぬ振りをする。
「レノアに聞き出そうとしたのだが、なぜか教えてくれないのでな。拷問して吐かせようとしたがこの通り、こんなになっても口を割ろうとしない。何やらよほど知られたくない秘密を握ってしまったらしいな」
「それで私に話させようというのですか」
氷室の声には静かな怒りが込められている。満身創痍のレノアはぐったりとしていて、氷室の声にも反応しない。
「おかしな真似はするな。お前の強さは知っているが、私とてまるきり素人というわけではない。お前が何かする前に、この神宝・水鏡の剣でレノアの体を真っ二つにすることなど容易なことだ。だがそれは私の本意ではない」
「レノア様にとってあなたは、初めてのご友人でした」
氷室はいきなりそんなことを言った。
「レノア様のご友人と呼ばれる人間は社交界に多くおりますが、あくまでうわべだけの付き合い。この間の食事にご一緒した方々とも、お互いに義理で付き合っているだけの間柄でした。対等な相手というのは、いつ敵に回ってもおかしくない相手のことを言うのです。王国貴族とはそういうものです」
そう言うと、氷室はミオを鋭く睨みつけた。
「レノア様にとって、ミオ様は初めてできたご友人でした。本人は決して認めないでしょうが。そればかりでなくレノア様はミオ様を――とにかくあなたはそんなレノア様を裏切った。いかに天帝陛下とはいえ、許すわけには参りませぬ」
「お前の許しなど要らぬ。欲しいのはエンジェルハンドに関する情報だけだ」
「お断りいたします」
氷室がそういい終わる前に、ミオは左手に握ったナイフを振り下ろしていた。
その瞬間は何も起こらなかった。しかし数秒遅れて、レノアの頬に一本の赤い縦筋が入り、そこからだらだらと血が流れ始める。
氷室の顔面が蒼白になった。
「王国貴族にとって、顔に傷がつくというのは大変な問題だろう? 帝国風に言えば『嫁の貰い手がなくなる』といったところか――ちなみにこのくらいなら私の魔法で跡を消すこともできる。もっとも時間が経てば経つほど難しくなるがな」
「何ということを――」
「私とてレノアのことは嫌いではなかった。最初会った時はともかく、その後いろいろと力を貸してもらったことだしな。だが私にとっては友情などさしたる問題ではない。母の、家族の仇を討つということに比べれば。……どうしたその目は? お前が何もかも洗いざらい話せば、レノアはこれ以上苦しまずに済むのだぞ?」
氷室が握り締める手には、必要以上に力が入っていた。
その時、気を失っていたレノアが目を覚ました。そして氷室と目が合った瞬間、レノアは切実な表情で訴えかけた。
「氷室! 話したりしたら許しませんわよ。わたくしのことなら構いませんわ、今すぐここから出て行きなさい――」
「うるさい」
ミオは冷酷な表情で呟くと、ナイフを持った左手の甲でレノアの顔を殴りつけた。
「なぜ――そこまでされて、なぜあなたは――こうなってはもはや隠す意味などありはしないのに――」
氷室は呆然とした表情で膝をつく。
「では次は指といこうか。何しろ手だけで十本あるからな、考える時間はたっぷりとあるぞ?」
「もういい」
感情の抜け落ちた声で氷室が呟く。
「何と言った? よく聞こえないぞ」
「何もかも教えてやる。だからレノア様を放せ」
「もちろん放してやる。だが情報が先だ。この期に及んででたらめなど言われたらかなわないからな、裏づけとなる資料はちゃんと持ってくるのだぞ」
氷室は資料を部屋に持ち込み、ミオに真相を説明した。
帝国に渡り、天帝の孫を襲ったエンジェルハンドといえば、十三人目の戦士・アルスタインに間違いないだろうということ。そして彼のフルネームはラータルト・アルスタインであること。そしてラータルトがミオと出会った時に持っていた剣が、教会からエンジェルハンドにのみ与えられる特別な剣と全く同じ形であること。当時のアルスタインの背格好に関する記述から、成長すればちょうど今のラータルトのようになると考えられること。
ミオにとってにわかには信じ難い事実を裏付ける証拠は、十分すぎるほどに存在した。
この世で一番信頼していた相手が、まさか自分の追っていた仇だったとは――あまりのことに、ミオは呆然とした表情で立ち尽くすしかなかった。
唯一の救いは、ラータルトには別にミオを騙そうという意図があったとは思えないことだ。おそらく記憶を失ったのは本当で、彼自身もそのことを知らなかったのだろう。しかし考えようによってはそれは救いなどではないのかもしれない。最初から騙すつもりで近づいたのなら話は早かったのだ――考えうる限り最も残虐な殺し方をすれば、とりあえず復讐は完成するのだから。
そんなミオに、氷室は冷静に声をかけた。
「レノア様はあなたが傷つくことを恐れて、それゆえにお話することができなかったのでございます。それなのにあなたは――」
「もういい」
ミオは突き放した声で告げた。
「だいたいこんなことだろうとは思っていた。さすがにラータルトが、というのは予想外だったが、レノアが何のために口をつぐんでいたかは大体想像はついていたことだ」
そう言うと、ミオは右手に握り締めていた刀を振り上げた。
それを見ていた氷室が微動だにする間もなかった。ミオはそれをレノアの頭上にまっすぐ振り下ろす。普通の剣なら頭蓋骨を砕くので精一杯だろうが、あいにくこの刀は普通ではない。レノアの体は頭から真っ二つに、縛り付けられていた椅子ごと切り裂かれる。
氷室は声も出なかった。
彼の目の前で、レノアの体が粉々に砕け散る。
「……え?」
大量のガラス片のようなものが、窓から入る光を反射して輝きつつ宙に舞っていたが、やがて空気に溶け込むようにそれは儚く消えていった。
後には滑らかな切り口を残して真っ二つになった椅子と、刀を振り下ろしたままの姿勢で動かないミオ、そして思わず腰を抜かしてしまった氷室だけが残された。
「最初は氷室に助けを求めて泣き叫ぶようにしようかとも思ったのだが、むしろあの反応の方がレノアらしいと思って途中で路線変更したのだ。どうやらお前も同じ意見だったようで何よりだ」
「……ひょっとして、私は、」
「まあ心配するな。レノアはお前が喋ったということには永久に気付くことはないだろう。お前が自分で言わない限りな」
そう言うと、ミオは近くの衣装棚に向かって歩き、無造作に扉を開け放った。
衣装棚の中で、レノアは壁に背中を預けるようにして、ぐっすりと気持ちよさそうな表情で眠っている。
「ご覧の通り。今の出来事は本人には全く聞こえていない。ん? どうしてわざわざこんな回りくどいことを、って顔をしているな。いい質問だ」
氷室は何も言っていないのに、ミオは勝手に話を進める。
「強情で負けず嫌いなレノアのことだ。一度話さないと決めたことは、拷問しようが懐柔しようが絶対に話さないに違いないと思ったからだ。残念ながら私はレノアの弱点を知らないし、私が知っていることといえば氷室がレノアを溺愛しているという事実くらいのものだ。だから利用させてもらった。ちなみに今の幻覚魔法はなかなかうまくできていただろう? まさか本当にレノアを拷問するわけにもいかないからな」
あたかも得意げに話しているように見えたが――
氷室にはわかっていた。あまりにも無情な現実を突きつけられ、ミオの心は今にも壊れそうになっている。そのバランスを必死で取ろう、関係ないことを喋りまくって少しでも気を紛らわせよう、そんな心の動きが行動となって現れているのだ。
「実際私がレノアの立場だったとしても同じ行動を取っただろうからな。お前には済まないことをしたと思っている。だがレノアには傷一つつけていないからその点だけは安心して欲しい。しかしさすがに全身傷だらけのレノアをさらに拷問するというのは演技とはいえあまりやっていて気持ちのいいものではないな中にはそういうのが趣味だという者もいるらしいが正直なところ理解できな――」
その時、部屋の扉が誰かにノックされた。
「何の用だ? 鍵は開いているぞ」
ミオの声に応え、一人の男が扉を開けて入ってきた。
「神有月ミオ様ですか?」
「いかにもその通りだ」
「あなた様宛てに手紙を預かっております」
「ほう、誰からだ?」
そう言いながら、ミオは男に差し出された手紙を受け取る。
「ラータルト様からでございます」
手紙を受け取った手が、ぴたりと止まった。
震える手で手紙の封を切ろうとするが、なかなか切れない。ようやく開けた時には封筒はボロボロになっており、中に入っていた手紙もぐしゃぐしゃになっていた。
そして、一つの石が零れ落ちる。
見覚えのある真っ赤な石だ。カーンに捕らえられたラータルトを救うため、自らの血を材料に作ったメイデン・ブラッドである。
これを返してきたということは――中身を読むまでもなく、手紙の内容には予想がついた。
おそらくラータルトも気付いたのだろう。そして、そのことをミオに伝えようとしているのだ。
ミオの予想が正しければ、この手紙自体には特に何も書かれていないだろう。どこかに呼び出し、誰もいない所で二人きりになったところで真実を告げるつもりなのだろう――真実を知ったミオがどんな行動に出ても、それを受け入れるために。
中身を読んでみた。まさにミオが予想した通りの内容だった。
ここまで読めてしまうほどに心を通わせた相手は、弟のハジメを除けば一人も存在しない――少なくとも今生きている人間の中には。