ミオが刀を構えたのは、ラータルトにとって意外な行動だった。本気で勝負をするつもりなら魔法で挑んでくるはずだと思い込んでいたのである。ミオは魔法使いとしては一流以上かもしれないが、戦士としてはせいぜい一流半、ラータルトの足元にも及ばないはずだ。
だが、疑問はすぐに解けた。
『五芒に輝く天魔の星よ、紅を司る神鳥よ』
刀を構えたまま呪文を唱える。その構えには隙が見受けられない。たとえ斬り込んだとしても、応戦しながら詠唱を続けるつもりなのだろう。
おそらく、声が出せなくなるような状況にでも陥らない限り、ミオは詠唱を止めるようなことはしないだろう。この状況でミオの声を封じるためには気絶させるか殺すしかないのだが、詠唱が終わるまでの短時間にミオを殺さずに気絶させるような器用な真似は、きっとこの世に存在するいかなる人間にも不可能だろう。
迷っているうちに、ミオの詠唱は終わろうとしていた。
『闇より舞い降り地に降り注げ、紅蓮に煌く焔星!』
あの時と同じだった。
無数に浮かび上がった光の玉が、灼熱の火球となって降り注ぐ。あの時は大勢の神官戦士たちに向かってばら撒かれたものだったが、今度は百数十個全ての火球が四方八方からラータルト一人に向かって降り注ぐ。
洒落になっていなかった。メイデン・ブラッドのような魔法抵抗装身具を身につけていない今、一発でも直撃を受ければ肉体は粉々に爆発四散するだろう。
しかしこの数を全て避け切るのは不可能である。ならばせめて直撃を受けないようにしなければならない。
紙一重で回避し、爆風をまともに受けないように自ら飛ぶ。自分でも自分が人間の動きをしていないことがわかる。かつて魔法使いたちとの戦いで刻まれた記憶が、彼の体にあり得ない動きを強いる。
いっそ、まともに食らって死ぬべきではないか――そんな考えさえ頭をよぎる。しかしミオの目は節穴ではない。少しでも手を抜いたりしたら彼女はすぐに気付くだろう。そんなことになれば、ミオは死ぬまでラータルトを恨みながら生きていく羽目になる。
ラータルトには、最初からこの戦いに勝つ気などない。勝つためには恐らくミオを殺さなくてはならない。しかし負けるということはすなわち自分の死を意味する。
この期に及んで自分に生きる資格があるなどと言うつもりはないが、だからといって命が惜しくないわけではない。自分が死ぬことによってミオの心が晴れなければ、まったくの無駄死にである。
そんなことを考えているうちに、火球の嵐はいつの間にか収まっていた。気付くと灼熱の爆風を受け続けていた服はあちこちが焦げており、皮膚には無数の水ぶくれができている。
痛みなど感じている余裕はなかった。
大技を使ったためだろう、一時的に力を使い果たしたらしいミオの動きが止まった。ラータルトの体はほとんど自動的にミオに襲い掛かる。
自分が弱ければもっと楽だったのに、とラータルトは思う。
そうであれば自分はあの時ミオの母親に殺されていただろうし、それ以前にエンジェルハンドとして世に送り出されることもなく、訓練施設で仲間に殺されていたはずだ。いずれにせよ、ミオと知り合うことはなかったはずだ。
ラータルトの動きにミオが反応する。刀を構え、ラータルトを迎え撃つ形で突き出される。
それを難なくかわしながら、ラータルトは別の角度から斬り付ける。
殺す気でやっていれば、ここで勝負が決まっていたかもしれない。だが殺意のない攻撃を防げぬほどに、二人の実力差は絶望的なものではなかった。
危うい所で、ミオはラータルトの剣を自らの刀で受け止めていた。
嫌な予感を覚え、ラータルトは慌てて飛び退き距離を取った。
思わずラータルトは自らの剣を見た。今ミオの刀と打ち合った部分に、小さな刃こぼれが生じている。
「なんてことだ……」
思わず呟く。かつてラータルトが持っていた剣は、名剣・名刀と呼ばれる刀を幾本も叩き折ってなお、刃こぼれ一つ生じることのなかった恐るべき逸品である。そして今持っているこの剣はかつて持っていたものと同じように作られたはずの、しかも『天使』であるエリシア自らがラータルトに手渡した新品である。
エンジェルハンドの強さの秘訣は、本人の強さもさることながら、彼らの持つ剣によるものも大きいというのが通説である。普通の剣が相手なら、それこそ木刀相手に真剣で打ち合うようなものだった。
だがミオの持つ神宝である水鏡の剣を前に、彼は生まれて初めて全く逆の立場に立たされていた。もしラータルトが持っているのが普通の剣だったら、今の一撃で真っ二つにされていただろう。
距離を取ったラータルトに向かって、ミオが告げる。
「やはり魔法でお前を倒すことはできない、しかし剣で戦っても勝ち目はない……か」
ラータルトは何も答えない。確かにミオの言う通りだった。いくらミオが致命的な魔法を連発してもラータルトは紙一重でかわす自信があったし、そうなれば先に力尽きるのはミオの方だろう。
「だがここまでは予想通りだ。私はお前と知り合う前から、エンジェルハンドを相手に戦うための方策を何年にも渡って練っていたのだ。そしてそのための切り札も――」
そう言うと、ミオは再び刀を構えると同時に呪文を唱え始めた。
『五芒に輝く天魔の星よ、紅を司る神鳥よ、遥かな宙より此処に舞い降り、現の世界に威を示せ』
ここまでは先程と同じだった。
だが彼女を包むあまりに異様な雰囲気に、ラータルトは近づくことすらできなかった。詠唱が終わっていないうちから、密度の極端に濃い空気がミオの周囲を包み込んでいる。
『異界に生まれし武士の魂、今こそ我が身に宿らせん』
猛烈に嫌な予感がした。ラータルトは思わず叫ぼうとした。
「待て、それは――」
『天より舞い降り我と交われ、百代無双の戦神!』
閃光が爆発した。
咄嗟に顔を庇い、ラータルトは地面に伏せた。
しかしそれはラータルトを狙った攻撃にしては、あまりにも的外れな爆発だった。膨大なエネルギーはミオを中心に渦巻き、天に向かってまっすぐ伸びているらしい。
目ばかりでなく肌をも焼く閃光はすぐに収まったが、ミオを中心に輝く光はいまだに健在である。よく見ると彼女の肉体そのものが自ら光を放ち、辺りを明るく照らし出している。
「天帝一族に代々伝わる七奥義の一『武神降臨』――」
ミオの声が、何重にもこだまして聞こえる。彼女を取り巻く力によって、空気の振動が乱れているせいだろう。
「対象を最強の戦士として死ぬまで戦わせるための魔法だ。天帝が自らの身を守らせるため、近衛兵の一人に対して使った記録が残っているが、その近衛兵は死ぬまでに一人で二百人の敵を片付けたそうだ」
そう言いながら、ミオは一歩、また一歩とラータルトに向かって歩み寄る。そのたびに彼女の関節がミシミシと軋むような音を立てている。
この手の魔法ならラータルトにも多少の知識はある。魔法によって肉体能力を高められた敵と何度か戦ったことがあるからだ。確かにその手の魔法は対象に爆発的な戦闘力を与えるが、しかし反動も大きい。効果が切れた瞬間、反動で倒れたまま三日三晩寝込むなどということはざらで、下手をすると命を落とすことすらあるらしい。
そのためこういった肉体能力を無理に高める魔法は、教会に仇なすテロ集団でさえ、非人道的な魔法としてよほどのことがない限り使うことはない。ましてや術者が自らの力を高めるために使うなどという話は聞いたことすらない。
ミオが使ったのは、その中でも特に凶悪な代物であろうことは疑いない。長時間使い続ければ、効果が切れた瞬間に命を落とすだろう。
「やめるんだミオ、そんなことしたら――」
「敵の身を心配している場合か?」
ミオが地面を蹴った。
瞬きほどの間に、ミオはラータルトの目の前まで迫っていた。そして信じられないような角度から強烈な一撃が振り下ろされる。
間一髪でラータルトは剣でそれを受け止めた。だが受け切れなかった。弾き飛ばされるようにして、ラータルトの体が地面を転がる。
「僕が……力負けした?」
こう見えても力には自信があった。記憶を失っていた時を除けば、こと剣における戦いにおいて力負けしたことなどただの一度もない。人間離れした筋骨隆々の化け物を相手に、何度も力で押し勝った記憶がある。
ミオが女性らしからぬ腕力の持ち主であることは知っていたが、人間らしからぬ腕力の持ち主であるというわけではなかったはずだ――少なくとも、あの武神降臨とやらを使う前までは。限界を超えて引き出された力は、人間の常識で考えられる範疇をはるかに超えていた。
次の一撃が来る前に、ラータルトは逃げた。ふと剣に目をやって愕然とする。今の一撃で、受け止めた部分の刃がぱっくりと欠けていた。もしこの剣が、『天使』エリシアからもらった新品でなく、エンジェルハンドに任命された時に与えられた古い剣であったら、あの一撃でラータルトの頭もろとも真っ二つになっていただろう。
だが、そのことに恐怖を感じる暇もなかった。顔を上げるとすぐそこにミオの姿があった。互いの息遣いが聞こえるほどの距離だった。
もはや受け止めるわけにはいかない。恐るべき速さで繰り出される斬撃を紙一重でかわし続ける他なかった。もちろん反撃する暇などあるはずがない。
ミオの肉体には相当の無理がかかっているらしく、呼吸のリズムが明らかにおかしい。このまま続ければ数分後には取り返しのつかないことになるかもしれない。だがこのまま行けば、倒れるのは間違いなくラータルトが先だろう。
間違いなく今のミオは、かつてラータルトが戦ったことのあるどんな相手よりも遥かに強かった。今のミオに勝てる者などこの地上に存在しないだろう。いかに大陸最強と称えられたエンジェルハンドといえど例外ではない。ラータルトはそう悟った。
――もう、いいかな。
ラータルトはそう考えた。自分は全力を尽くしたのだ。もはやどうやっても勝ち目はないが、全力を尽くした結果であれば負けるのはしょうがない。むしろ負けるべきなのである。ミオが全力でラータルトに挑む、ラータルトは全力で応じる、その結果ミオが勝つ。それがラータルトの死を意味するとしても、現状で望みうる最善の結末なのである。
そう考えると楽になった。もはや何をどうしようと結末は変わらない。いかに負けるか、などと考える必要はないのだ。だとすれば逃げてばかりではなく、最期くらいは立ち向かって死のうと思う。攻撃に転じる一瞬の隙に、ラータルトの体はきれいに両断されるだろう。
その考えを実行に移そうとした瞬間だった。
不意に、ラータルトとミオの視線が交錯する。
その瞬間、ラータルトは見てしまった。ミオの両目の端に、わずかに透明に輝くものが浮かんでいるのを。
ついに仇を討つことができる――そんな喜びの涙だと思いたかった。
だが、乱れた息に混じってミオのかすかな呟きが聞こえてしまった。一撃ごとに、ミオは苦しみと哀しみのこもった声で呟く。
「私は、憎き仇を討つために、力を手に入れた――」
「生き延びること、復讐の力を手に入れること、その二つが人生の全てだった――」
「引き換えに失ったものは大きかった――」
「その悲願がついに叶うというのに――」
「私は、また失うのか――」
「――何よりも大切なものを――!」
もはや後には退けない――その意志が刀に宿って殺意となり、ラータルトに容赦なく牙を立て続ける。
ラータルトはもう一度考える。ミオにとって何よりも大切なものとは何か。ミオは何を失おうとしているのか。
母を殺した仇を討つ、という目標がなくなったところで、ミオに生きる目的がなくなるわけではない。世界を手に入れて弟を助ける、というもう一つの目標は依然として残るのだから。
では、ミオが仇を討つことによって失われるものとは一体何か。
そんなもの、考えるまでもなく一つしかないに決まっている。
だがラータルトはそれを受け入れることができなかった。ミオが真相を知る前ならいざ知らず、いまだにそんなことを考えているなどあり得ないことだった。
守るために戦う。それがエンジェルハンドの存在意義だった。
かつては『天使』を守るために異教徒と戦ってきた。ミオの家族を殺したのも概ねそんな名目からだった。だがこの状況で、何を守るために誰と戦うというのか。
『誰を守るって、そんなの決まってるじゃないか』
ミオを守るために、ミオと戦う。
滅茶苦茶ではあるが、単純な話だった。しかしミオの方は今、何を守るために誰と戦っているのか。
『あなたはこれからきっと辛い思いをするでしょう――でもその時、本当に一番辛いのはきっとミオさんだと思うんです』
塔の中で、エリシアは確かそう言ったはずだ。
『昔の僕は、ずっと教会の命令で天使を守るために戦っていた。この力はそのために与えられた力だ。でも――それじゃ今のミオには勝てない』
そう考えた時には、既にラータルトの体は動いていた。
このまま避け続けるのは不可能だ。しかし受け止めることもできない。勝ち目はないように思える。
だが、絶対に勝たなければならないとすれば、たとえわずかな可能性でも賭けるしかない。
『だけど今は、僕の意思でミオを守るために戦うんだ』
避けることも受け止めることもできないなら、やるべきことはただ一つ。
攻める。
『どうか僕に、そのための力を――!』
当然、ミオはラータルトが攻めに転じる隙をついてきた。その刃は完全に心臓を狙っていた。
ミオの持つ水鏡の剣がラータルトの胸を貫く。
その攻撃は、完全にラータルトの胸を貫通していた。しかしラータルトはそのままミオの剣の背を左手でしっかりと握る。
ミオの表情が驚愕に固まった。そして、ラータルトの胸に刺さった剣を力任せに引き抜こうとする。
だがそれよりほんの一瞬だけ早く。
口から血を流しながら、ラータルトは右手の剣を一閃させた――