日付が変わろうとしている。
要所以外の明かりは消され、薄暗い神殿の廊下を、バスローブ姿から着替えた二人は、足音を殺して歩いていく。隠密行動を意識してか、ミオはいつもより暗い色調の袴を身にまとっている。
あちこちに神官戦士の見張りが、それこそ不自然なほどの人数が歩いていたものの、二人は本職顔負けの慎重さと大胆さをもってこれをやり過ごし、神殿の中心部へと進んでいった。帝国で熾烈な生存競争を勝ち抜いてきたミオはともかく、それに合わせてここまで見事な隠密行動が取れることに、ラータルトは自分自身で少なからぬ驚きを感じていた。
「どうやらこの方向で間違いないようだな。しかもあの見張りの雰囲気からして、今まさに何かをやっている最中なのだろうが、物音が全く聞こえないということは地下か何かがあるのか?」
すぐ近くにいるラータルトにだけ聞こえるような声で、ミオはそっと囁く。
「なんか相当やばい空気が漂ってくるんだけど……これって、見つかったら絶対消されるよね」
「心配するな。そんな時のために、私はとても腕の立つ護衛を一人連れてきたのだ」
「……念のために聞くけど、それって僕のことだよね?」
地下にはほとんど明かりがついていなかった。手探りに近い状態で二人は通路を奥へと進んでいく。途中で鍵のかかった扉がいくつかあったが、その度にミオが「こう暗いとやりづらいことこの上ない」などと愚痴をこぼしつつ、しかし針金を器用に使って確実に鍵を開けていく。
いくつもの扉を開け、何度か通路を曲がったところで、奥の方から明かりが漏れてくるのが見える。そしてついに最後の扉を開けると、二人は身を潜めながらその部屋へと忍び込んだ。
それまで真っ暗な通路を進んできた二人にとって、目が痛くなるほどの明るさだった。
大きな部屋である。何か儀式をおこなうための部屋らしく、中央部は低くなっていて、その周囲――二人が身を潜めている場所は、まるで観客席のように高くなっており、中央部をぐるりと囲む格好になっている。
大掛かりな儀式の時は、この観客席のような場所に神官が詰めかけ、一斉に祈りを捧げるのだろう。しかし、今は身を潜める二人の他に、この場所には誰もいない。
そして、中央部には二人の人間の姿があった。一人は、遠くからでも見間違えようのない肥満体、すなわちマクシス神殿長その人だった。
もう一人、祭壇のような場所に誰かが寝かされているように見えるが、この距離からではそれがどんな人物なのかは窺い知れない。ずいぶんと痩せているようにも見えるが、隣に立っているマクシスがあまりに肥満しているため、錯覚でそう見えるだけなのかもしれない。
そして、その周囲を取り囲むように、何十体もの古びた鎧が無造作に置かれていた。何の意味があるのかはわからない。
『もう少し近づいてみよう。ここからだと何も見えない』
そんな意味のことを、ミオは身振り手振りで器用に伝えてきた。ラータルトは頷き、二人は這うような格好で中央部に近づいてみた。その時、中央部から話し声が聞こえてきた。
「こんな格好でわたくしを寝かせて、一体何をするつもりですの?」
少女の声だ。微妙に聞き覚えのある声と口調だった。しかしその声は記憶にあるより弱々しく、いかにも追い詰められた感じだった。
「てっきりもう気付いているとばかり思っていたがな。そうでないなら、ここまでする必要はなかったかもしれんが……まあここまでしてしまった以上、今更言っても仕方のないことか」
「まさか、わたくしの血を使ってあれを作る気っ――?」
これ以上近寄れない、というところまで近づいて、ラータルトはミオと共にその様子を覗き見る。聞き覚えのある声だと思ったのは間違いではなかった。祭壇に手足を縛った状態で寝かされている少女には見覚えがあった。
港町で決闘を申し込んできた、あのレノアとかいう少女だった。
彼女は服を脱がされ、ほとんど下着だけの半裸姿にされている。こうして見ると想像以上に白くて、そして細い。ラータルトの好みからすれば痩せすぎで胸も小さいが、これはこれで美しい――
などと考えている場合でないことを思い出し、ラータルトはじっと成り行きをうかがう。事情が飲み込めない以上、二人の会話にじっくり耳を傾ける他ない。
「あの石を作るには、心身ともに清らかなる乙女の生き血が必要なのだ――この瓶いっぱいにな。お前の場合、身体はともかく心はお世辞にも清らかとは言えまいが」
「な――何を申しますの、わたくしの心がいかに清らかで美しく気高いか、あなたご存知でないのね?」
気高いの部分だけは合ってるかもしれない、ただしあまり良くない意味で――などとラータルトが考えている目の前で、マクシスは右手に何かを持ち、祭壇に寝かされたレノアに近づいていく。
それは、太く大きな針だった。そこからは管のようなものが伸び、横に吊るされた大きな透明の瓶につながっている。マクシスはレノアの腕を掴むと、針の先端をその細くて白い腕に突き刺した。レノアの悲鳴が広間中に響き渡る。
「心身ともに清らかな乙女、というのはなかなか希少な存在でな。しかしお前の血でも、ただのメイデン・ブラッドなら作れるだろう。ピュア・メイデン・ブラッドに比べればだいぶ価値も効果も落ちるが、それでも同じ大きさのルビーと比べれば数十倍の値段にはなる――」
そう言いながら、マクシスは首から提げた何かを左手でまさぐっている。
太すぎる指の隙間から見えるそれは、単に周囲の光を美しく跳ね返すのみならず、自らもかすかに光を放つ、実に美しい血の色をした大きな宝石だった。
こんな状況にも関わらず、ラータルトはしばらくの間、その宝石に魅入られていた。
あれがピュア・メイデン・ブラッドか――思わずため息をついてしまってから、聞こえてしまったのではないかとラータルトは慌てて様子を伺う。
しかし、宝石に魅入られていたのはラータルトだけではなく、マクシス自身もそうだったようで、物音に気付いた様子は微塵も見せない。そもそも、レノアが先程から悲鳴をあげ続けているので、物音はおろか話し声すらも向こうには届かないかもしれない。
だが、その悲鳴が少しずつ弱くなっているような気がする。
見ると、祭壇横の支柱からぶら下げられた瓶の底には、最初に見た時には入っていなかったはずの、赤黒い液体が溜まっている。レノアの腕から抜き取っている血に間違いないだろう。
それにしても、とラータルトは思う。あの瓶の大きさは相当のものだ。
悲鳴は更に弱々しくなり、もはや悲鳴とは呼べないただの喘ぎ声と化していた。レノアの顔を見ようとするが、元々白かったその顔が、今ではいかにも苦しそうに青ざめている。ラータルトは思わず視線を逸らそうとし――心臓が大きく脈を打つ。
あの少女は、ミオに決闘を申し込んできた相手だ。そのせいで自分は氷室などという一流の剣士と、命がけの戦いをする羽目になったのだ。敵か味方か、と問われれば、どちらかといえば今でも敵だ。
しかし、そんな相手であるにも関わらず、こうして祭壇に縛り付けられ、何の抵抗もできぬまま、こうして血を抜かれ続けているのを見ていると――マクシスにその気があるのかないのかは知らないが、このまま血を抜かれ続ければ、レノアは確実に死ぬ。
瓶はすでに半分近くまで満たされている。レノアはもはや声を発することもできず、呼吸は速く、しかし驚くほど浅くなっている。
ラータルトは思わず飛び出した。何の考えもなかった。ミオが背後から何かを叫んだが、耳に入らなかった。
突然のことに驚いてひっくり返ったマクシスには目もくれず、ラータルトはレノアの腕から針を引っこ抜くと、剣を抜き放ってレノアを祭壇に縛り付けている縄を切った。腕から流れ続ける血を止めるため、ラータルトは持っていたハンカチを傷口にきつく巻きつける。
ぐったりとするレノアに話しかけるが、もはやほとんど意識がないらしい。だが、おそらく命に別状はないだろう――
そこで、ようやくラータルトは我に返った。
ここはいわば敵陣の真っ只中である。マクシスは何か天井から吊るされた紐のようなものを懸命に引っ張っている。これが何かの合図だとしたら、今にも神官戦士の一団が駆けつけてくるだろう。自分はとんでもないことをしてしまったのではないか。そう考えて背筋が寒くなる。そして追い討ちをかけるようにミオの叫び声が耳に入った。
勝手な行動を怒られたとしても文句は言えない――だがミオが叫んでいたのは、それよりもはるかに差し迫った警告だった。
「今すぐそこを離れろ! その娘を連れてこっちに来い!」
不意に何かの気配に気付いて、ラータルトは床を転がるようにそこから離れる。
それまでただの置物にしか見えなかった、どう見ても中に人が入っているとは思えない鎧が、それまでラータルトが立っていた場所に剣を振り下ろすのと同時だった。
「う……動いたっ? 動いたっ!」
「いいから早くこっちに来い!」
ミオに言われるままに、ラータルトは意識のないレノアを強引に背負う。驚くほど軽くて、骨ばっているのに柔らかかった。上品な、しかし強烈な香水の匂いが鼻を打つ。
レノアを背負ったラータルトは懸命に走ってその場を離れようとするが、背後からさらに別の鎧が迫ってくる。鎧が剣を振り上げるのが気配でわかる。このまま振り下ろされれば、背中のレノアがまともに斬られる――
「振り向くな、走り抜けろ!」
ミオの言葉を信じ、ラータルトはそのまま走り抜けた。
斬撃は来なかった。代わりに、正面から飛来した何かがラータルトの横をかすめていった。
ミオの真横を駆け抜けてから、ラータルトは首だけで振り返る。そこには、身長ほどもある弓を構えるミオの姿と――そして剣を振り上げ、胸に矢を突き立てた姿勢のまま、それきり動かなくなった鎧の姿があった。
そして、次々と動き出す鎧の総数はおよそ二十。その胸には紋章のようなものが輝いており、最初の一体はそこを射抜かれて動かなくなったらしい。弱点はわかったのだから、自分の剣とミオの弓があれば、二十体ならなんとかなるかもしれない。しかし時間はかかるだろうし、その前に神官戦士たちが大挙して押し寄せてくるだろう。
ミオも同じことを考えていたらしく、鎧の集団にためらいなく背を向け、ラータルトの後を追うように駆け出した。
「とにかく外に出るぞ! タマと合流できればあとはどうにでもなる!」
「わかった!」
二人は広間を出て、再び闇に閉ざされた地下通路に飛び込んだ。
鎧たちは見た目通り足が遅いらしく、追いついてくる気配はない。護衛としてはともかく、侵入者を捕らえる役としてはお世辞にも有能とはいえない。にも関わらずあえて物言わぬ鎧に護衛させていたのは、おそらく秘密を守るためだったのだろう。
暗闇の中、何度も壁にぶつかりそうになりながらも、いまだ目を覚まさぬレノアを背負ったラータルトと、左手に弓そして右手に矢を構えるミオは、ひたすら駆け抜けた。
「あの……さっきはごめん」
「……まったくだ」
ミオの声は明らかに怒っていたが、どの程度怒っているのか、声の調子だけではいまいち判別がつかない。
「その、後先考えずに飛び出して、その結果こんな目に」
「だいたい主人を差し置いて先に飛び出すなど図々しいぞ。私が飛び出そうと構えたところでいきなりお前が飛び出すから、驚いて転んでしまったではないか」
「あんたも飛び出そうとしてたんかい!」
思わず大声で叫んでしまってから、ラータルトは慌てて口をつぐみ、辺りを見回した。その声に反応したのか、ラータルトの背中で眠っていたレノアが「うぅん……」と声を上げる。
「あっ、気付いたのかな?」
「わ、わたくし、何を……こっ、ここはどこですの?」
その口調はいつも通りであったが、声にはまるで力がなかった。
「とりあえず簡潔に説明すると、今はこの大聖堂から脱出しようとしている最中だ」
「な……なんてことですの!」
ミオの言葉を聞いて状況を把握したレノアは、いきなりラータルトの背中で暴れ出した。しかしその動きにはまるで力がない。
「わたくしはあなた方に助けて欲しいなどと言った覚えはありませんわ。今すぐここから降ろしなさい! わたくしだって命は惜しいけれど、こんな屈辱を受けるくらいなら死んだ方がまだマシというものです!」
そう叫びながら、レノアはラータルトの頭を拳で叩き続ける。ラータルトにしてみれば、力が入っていないため大して痛くはないのだが、このままでは走りにくいことこの上ない。
だが熱くなっているレノアに対し、ミオはあくまで冷ややかに告げた。
「勘違いするな。お前に拒否権などない」
「なっ――!」
「助けられるのが嫌なら最初から捕まらなければ良いのだ。まあ今更言っても遅いがな、もはやお前の生殺与奪は私の思いのままだ。どうだ悔しいか悔しいだろう」
「ミオってば子供みたいだよ……そもそもミオって何歳なの?」
「正確にはわからないが確か十六のはずだ。ちなみに帝国では十五で成人だがこの王国では十八で成人と聞いている。ということは別に子供みたいでも問題あるまい?」
もはや突っ込む気力もなくなったラータルトは、今度はレノアの方に話を向ける。
「そういえば、どうして捕まってたの?」
すると、暴れ疲れておとなしくなっていたレノアは、意外にも素直に答えてきた。
「前々からこの大聖堂とマクシスを探っていましたの。この大聖堂は何かと黒い噂が多かったけれど、今回の噂は――若い女の子が度々呼ばれては、それきり姿を見せなくなる、という噂を耳にした時は、絶好の機会だと思いましたわ」
「絶好の機会?」
「……ご存じないようですわね。この大聖堂は、我がヨーデンブルク家の領地に囲まれながら、独自の権力と戦力を持った特異な存在。表面上は友好を保っていても、相手に隙あらば蹴落として優位に立とうと、水面下での探り合いが何十年に渡って続いてきたのですわ」
「何十年……すごい話だね」
「まあ、我がヨーデンブルク家の歴史の長さに比べれば大したことありませんけれど。それにしても、まさかこんな強硬手段に出てくるなんて夢にも思いませんでしたわ……この付近を通りかかったところをいきなり囲まれて、そのまま地下室に連れ込まれてあの有様。おかげでマクシスが何をしていたか、これ以上ないほどにはっきりと理解できましたけれど」
確かに、『少女を誘拐して地下室で血を抜き取り、それを使って宝石を作っていた』などという話が表沙汰になれば、マクシスの聖職者生命は即座に終わりを告げるだろう。そういう意味では確かに、ヨーデンブルク家にとってはこの上ない収穫を得たことになる――ここから生きて抜け出せれば、の話だが。
「でも、護衛の人とかは? あの氷室って人がそんな簡単にやられるとは思えないんだけど」
その名前を出した瞬間、レノアの表情があからさまに曇った。
「……知らないわよあんな奴」
「一緒じゃなかったの?」
「わたくしにはわかっていましたわ、氷室があなたとの決闘で手を抜いていたことを。そのことを問い詰めたら、あの男、逆に私にくどくどくどくど説教を始めて――ああもう思い出しただけで怒りが収まりませんわ」
「それで追い払っちゃったの?」
「……あの時いつものように氷室が横にいれば、こんなことにはならなかったでしょうね。でも、今更それを言っても始まりませんわ」
確かにその通りだ。今はとにかくここから脱出するのが先決である――ラータルトは会話を打ち切り、とにかく先を急ぐことにした。
それにしてもおかしい。地下から抜け出した後、今のところ誰にも遭遇していない。
「あれは戦士たちを呼び寄せる合図ではなかったのか……?」
「とにかく早く外に出よう、こんな所で挟み撃ちにでも遭ったら一巻の終わりだ」
窓はどれも小さく、人が通り抜けられるほどの幅はない。ラータルトはおぼろげな記憶を頼りに正面玄関を目指す。
「着いた! あそこが出口だ!」
ラータルトが指した先には、ミオとラータルトが招き入れられた正面玄関があった。閂に飛びつき、力任せに大きな扉を開け放つ。
そして、三人は夜の闇の中に飛び出した――