部屋に入った瞬間、むっとするような臭いが鼻を突き、セレスは思わず顔をしかめた。それが、父親が飲んだくれている時の自宅の部屋の臭いと似ていることを思い出し、ふと懐かしい気持ちが呼び起こされる。
木張りの床と壁に囲まれた、それなりの広さを持つ一室である。左奥にカウンターのようなものがあり、その向こうにはこの店の主らしき者の姿が見える。
他にもいくつかの円卓と椅子が置かれている。それらの客席には合わせて十人近くの、いずれも強面かつ立派な体格の男達が座っていた。彼らの注目を受けながら、セレスはカウンターへと向かう。すると、その中にいる店主らしき男が話しかけてきた。
「おい嬢ちゃん、ここはお前さんみたいな子供の来る店じゃ――」
「えっ、でもこの地図の場所ってここだよね?」
セレスが例の地図を手渡すと、店主の表情が変わった。同時に、彼はセレスの右胸に着けられた紋章の存在に気付いたようだ。
「するってぇと、お前さんがセレスティアか? いやはや、若い女とは聞いていたが、いくらなんでも若すぎるだろ。いくつだ?」
「十五歳」
「むう、それであんな奴を選んだのか……そういやお前さん、契約書は持ってるか? ちょっと俺にも見せてくれ」
言われて、セレスはポケットから契約書を取り出して店主に渡す。店主はしばらくそれに目を通していたが、次第にその表情が険しくなる。
「おいおいおい、ひでぇ話だなこりゃ。キャンセル不可の条件であいつを選ぶなんて、ほとんど詐欺まがいじゃねぇかこれ」
「どういうこと?」
不安になって訊ねるセレスに、店主はため息混じりに告げる。
「この契約ではな、奴が選んだ相手と無条件で一年契約を結ぶことになってる。もちろん契約料は相場に見合ったものだが……仮にその相手に問題があっても契約は拒否できない。解約するには、残りの期間の契約料をまとめて払わなきゃならない、って寸法だ」
「あー、そういえば一任していただくとかキャンセルにお金がかかるとかそんなこと言われたっけ」
その時、それまで客席に座っていた男の一人が横からセレスに声をかけた。
「おう、なんかお困りみてぇだな」
人相の悪い男である。しかしその体つきと雰囲気からセレスが察するに、かなり荒事に慣れているといった印象を受けた。背中に大剣を背負ったその男は、身を乗り出すようにしてセレスに告げる。
「何なら俺がそいつの代わりになってやってもいいぜ」
「でも、キャンセルするとお金がかかるんじゃないの?」
セレスの言葉に、男は黄色い歯をむき出しにしてにやりと笑ってみせる。
「そんなもの相手の同意があればどうとでもなる。なあに心配いらねぇ、俺がバッチリ説得してやるさ」
「力ずくでか?」
渋い顔で店主が問うと、男はさらに笑みを深くした。どうやらそれが悪いことだなどとは微塵も思っていないらしい。
「ちなみに店主さんよ、その選ばれた相手って誰なんだ?」
「――アルコンだ」
その瞬間、男は思い切り吹き出した。
「ぶはっ! よ、よりによってあいつかよ! しかしあいつは馬鹿だから口で説得するのは無理だろうな。ま、口以外で説得するのは簡単だろうが」
「店の中ではやめてくれよ。あいつの身に何かあったら責任問題になっちまう」
「心配すんなって。いざとなったら俺の兄貴に頼んで――」
その時、階段の方に新たな人の気配が現れた。その場にいた全員が一斉に振り向く。
そこにいたのは、どう見ても子供だった。
少年の背はセレスより低く、おそらく十二、三歳くらいと思われる。金髪を無造作に立てていて、目は美しい青なのだが目つきは悪く、何が気に食わないのか妙にふてくされた表情をしている。しかしその割には、どちらかというと「格好いい」というより「可愛い」といった雰囲気すら窺える。
服装はかなり地味な旅装で、腰には一振りの細身の長剣を下げている。体格の割に不釣合いな長さではあるが、それ以前にそもそも剣などというものは、この年頃の少年が日常的に持ち歩くような代物ではないはずだ。何もかもが不釣合いな、奇妙な少年――それが、セレスがこの少年に対して抱いた第一印象だった。
少年は黙ってカウンターに近づくと、開口一番、店主に告げる。
「こんな真っ昼間に呼び出して、一体何の用だ?」
「お前の契約相手が決まったんだよ」
少年は、ふん、と鼻を鳴らす。
「この時期だとあれか、地方領主サマの護衛団か何かか? だったらパスだ、どうせ嫌われて追い出されるに決まってる。豪商とかならまだ話が通じるんだがな……まさかまた賭場とか売春宿の用心棒とかじゃねーだろうな? こないだやってコリゴリだぜ、つーか俺いくつだと思ってるんだまったく」
「今回はお前の希望通りだ」
店主のその言葉に、少年の表情がぴくりと動く。
「マジか? この期に及んで俺を供にするような『勇者』がいるとは思わなかったぜ。で、そいつは――」
その時、ふと少年のことをじっと見つめていたセレスと目が合った。
じっと三秒ほど見つめ合っていただろうか。少年の視線が、胸元の紋章に移る。
「……なんだ新米か」
吐き捨てるように、ため息とともに少年は告げた。
「当たり前だ。新米以外でお前を拾ってくれるような『勇者』がいるわけないだろう」
店主の言葉に、少年は苦い表情を見せる。
「まあ実力相応って言ったらそうなんだろうがな。しかしなんだ、女でしかも子供かよ」
「十五歳だそうだ、もう子供じゃない。大体それをお前が言うかね」
やれやれ、といった調子で店主が首をすくめる。
「そもそも女勇者でモノになったのってティエラ・レジェンダくらいのものじゃねぇか。選ぶ方も一体何考えてるのかね。柳の下のなんとやら、ってか?」
そこまで言って、少年はセレスがじっと彼のことを見つめていることに気づいた。見つめているというより、全身をなめるように見回している、と言ったほうが近いかもしれない。
「……なんだよ、文句あるのか?」
そこで、ようやくセレスは口を開いた。
「びっくりしたなぁ。あたしより小さいとは思わなかった」
「……喧嘩売ってるのか?」
少年がじろりと睨んでくるが、セレスは全く動じない。
「ううん、そうじゃなくて、その歳で職業戦士ってのもすごいなぁって思って」
「全然すごくねーよ。所詮は二流止まりの落ちこぼれだ」
「その歳でそう言い切っちゃうのって、ちょっと早くない?」
セレスの問いに、少年は馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「はっ、お前は本物の『一流』ってものを知らないからそう言えるんだよ。あれはほんの一握りの、生まれながらにして持てる者だけが辿り着ける世界さ。努力だけでどうこうなるもんじゃねーよ」
「ふーん、大変な世界なんだね」
そこまで言って、ふと思い出したようにセレスは告げる。
「あたしはセレスティア。セレスって呼んで。あなたは――」
その時、先程横から話しかけてきた戦士の男が、二人の間に割って入るようにして少年に詰め寄った。
「おい小僧、このお方はお前なんてお呼びじゃねーってよ。だからとっとと帰れ」
少年は、黙って男を見つめている。身長差があるので思い切り見上げるような形だ。
しばらくそう見つめ合っていたが、ふと少年は視線を逸らし――そしてセレスに訊ねてきた。
「そうなのか?」
その表情は、今までとほとんど変わっていないように見えたが――
「ううん、まだ決めてないんだけど」
「だ、そうだ」
今度は男に向かって少年は告げる。
男はそんな少年を無視し、セレスに向かって話しかけてくる。
「なああんた、勇者の任務ってのは危険なものばっかだ。あんたはまだ魔獣と戦ったことないだろうがわからんかもしれんが――」
そう言って、ちらりと少年のほうに視線を送った後、再びセレスに向き直って告げる。
「あんなへなちょこがいたって、魔獣相手の戦いで役に立つとは思えねぇ。だからあいつの代わりに俺を雇え。腕前は保証付きだぜ」
「うーん……」
セレスは考え込むような素振りを見せてから、店主に訊ねる。
「どうなの?」
「俺の口からは何とも言えんね。まあそいつがこの道十数年のベテランなのは確かだが」
「よーし、それじゃこうしようぜ。俺とそのガキが勝負して、勝った方があんたの仲間になる。これでどうだ?」
にやにや笑いを浮かべながらそう告げる男の言葉に、セレスはちらりと少年の表情を窺う。その視線の意味を察したのか、少年は投げやりな調子で告げる。
「興味ねーな」
それは、ここで勝負を行うことに興味がないのか、それとも自分の仲間になることに興味がないのか――そうセレスが訊ねるより早く、男は少年に詰め寄った。
「なんだええその態度は? お前、今自分がどういう立場に置かれてるのかわかってるのか?」
「どっちを仲間にするかなんて、そいつに勝手に選ばせりゃいいんだよ。勝負がどうとか知ったこっちゃねー」
あくまでやる気なさそうに少年は吐き捨てる。そんな様子にさらに激昂した男は、少年の胸倉を掴み上げる。セレスよりさらに軽いと思われる少年の体はいとも簡単に宙に浮き上がるが、それでも少年はぴくりとも表情を変えない。
その様子を見て、たまらずセレスが止めに入る。
「何やってるのよ!」
「あんたは黙っててくれないか。こいつを――」
「そんなに実力を見せたいっていうなら、あたしと勝負するってのはどう? あたしもちょうど、自分の実力を確かめたかったところだし」
あまりに唐突なセレスの提案に、男は思わず少年の体を床に取り落とした。
「……本気で言ってるのか?」
「冗談言うって雰囲気でもないでしょ」
そんなセレスを男はまじまじと見つめていたが、やがて苦虫を噛み潰したような表情になって告げた。
「俺もずいぶんナメられたもんだな。あんたから言い出したことなんだからな、後悔するんじゃねぇぞ」
そう言いながら、男は背中の剣に手を伸ばすと、すらりと引き抜いた。周囲のランプに照らされ、刃の照り返しがゆらゆらと鈍い光を放つ。
「えっ、ちょっと、真剣でやるの? しかもここで?」
「なんか文句あるのか? 今更やめようったって、そうはいかねぇぜ」
「まったくもう……」
その時、床に放り出されていた少年が口を開き、ぽつりと告げた。
「やめた方がいい」
「えっ?」
疑問の声とともにセレスが振り向くと、少年はため息混じりに、あらぬ方向を見やりながら続ける。
「やるだけ無駄だ。はっきり言って勝負になんねーよ。もう少し、自分の身の実力ってもんを弁えた方がいい」
「あ、あたしはそれが知りたくて――」
「大体大人気ねーんだよムキになって……馬鹿馬鹿しい。俺は寝るぜ」
そう告げると、少年は椅子に腰掛け、脚を乱暴にテーブルの上に乗せると、そのまま目を閉じてしまった。どうやら本当に寝るつもりらしい。
「でも、本当にこんな場所でやっていいの?」
そう言いながらセレスが辺りを見回すと、他の客は手際よくテーブルや椅子を部屋の隅に片付けている。どうやらこのような事態は日常茶飯事らしい。
「なるほど、遠慮は要らないみたいだね」
セレスは覚悟を決めると、目の前で剣を構える男に向かってつるはしを構えた。
実は、人間相手につるはしで戦うのはこれが初めてである。それ以前に真剣を持った人間を相手にするのも初めてだ。おまけに室内で戦うのも初めて――何もかもが初めて尽くし。こんな状態で実力を出し切れるのか不安ではあるが、まあこうなってしまった以上やるしかない、とセレスは腹をくくる。
「それじゃ、行くぜ――!」
合図とともに男が突っ込んでくる。真正面から振り下ろされた大剣を、セレスはつるはしの先の部分で受け止める。
大きな金属音とともに、それはしっかりと受け止められる。さすが鋼鉄製だけあって頑丈である。断ち切られるどころか、傷一つついていないようだ。
今度はこちらから攻撃を仕掛ける番だ――そこではたと気づく。いくらテーブルが隅に片付けられているとはいえ、この部屋はこの大きなつるはしを存分に振り回すにはいささか狭すぎる。天井の低さも不安材料だ。大体にして、魔獣相手と同じように先端で貫いてしまえば、どこをどう狙ったところで致命傷は避けられない。
悩むのは一瞬だったが、その間に男は大剣を構え直し、今度は横から振り回してくる。なんとか柄の部分でそれを受け止めるが、両手に強烈なしびれが走る。さすがに腕力の差は歴然、父親の時のように吹っ飛ばされることこそなかったものの、押し返すなどといった戦法は間違っても取れそうにない。
ふと、セレスは閃いた。相手がこちらを殺す気でいるならば、もしくは何も考えていないのならば、あの戦法が使えるかもしれない。極めて危険な戦法ではあるが、勝機があるならばこれしかない。
セレスは息を整え、つるはしをもう一度しっかりと握りなおす。
「ぬおぉぉぉぉっ!」
男は雄たけびとともに、大きく振りかぶった大剣を全力で振り下ろしてくる。受け止めてもその衝撃でダメージを受け、回避したところでその勢いで二撃目、三撃目が繰り出されるであろう、武器の扱いをよく心得た者の攻撃である。
だが感心している場合ではない。セレスはそれを受け止めようとも避けようともせず、慎重にタイミングを計る。そして――
「そこっ!」
腰だめに構えていたつるはしを、セレスは一気に振りぬく。その先端は相手の横半身――ではなく、その目の前に構えられた大剣の、しかも根元の一点を正確に捉えていた。
澄んだ金属音が響き渡る。一瞬遅れて、男の持っていた大剣の、根元から先の刃の部分だけが、セレスの背後の壁に深々と突き刺さる。柄だけを握り締めた男は、一体何が起こったのか理解できず、呆然とその場に立ち竦んでいる。
「ひえーっ、ちょっとタイミング遅かったかな。危うく飛んできた刃に頭割られるところだったよ」
はらはらと舞い落ちる、数本の夕焼け色の髪を目にしながらセレスは呟く。
勝負あり、と周りの者たちも感じたのだろう、隅に片付けてあったテーブルを元に戻し始めていた。心なしか、彼らの顔色が若干青ざめているようにも見える。
「なるほどね」
それまで寝ていたと思われた少年が、いつの間にか目を開けていた。
「確かにこんだけハンデくれてやれば勝負にはなるかもしれないな。なかなか楽しませてもらったよ」
「ハンデ?」
首を傾げるセレスに、少年は告げる。
「こんな狭っ苦しい部屋で長柄の、しかもどう見ても対人戦に向かない武器で、おまけにそれで人間相手に戦うのも初めてなんだろ? 挙句に殺す気はありませんと来たもんだ」
「ちょっ――もしかしてあたしが勝つって予想してたの?」
セレスが驚きの声を上げると、少年はため息をついた。
「お前さ、この道で食って行くなら、もっと相手の実力を見極める力とか身につけた方がいいぜ。こいつなんかどう見てもただの雑魚だ。この道十数年のベテランとかほざいてやがるが――はっきり言って戦士と呼ぶにも値しねーよ」
その言葉に、はっと我に返った男が、柄だけとなった剣を捨てて少年を睨みつける。
「……何だと?」
だが、少年はそんな男を完全に無視して、セレスに向かって続ける。
「はっきり言って、世の中にはお前より強い勇者はいっぱいいる。だがお前より弱い勇者もいっぱいいる。要するに勇者の役割ってのは何も戦うことばかりじゃねーってことだ。有能で信頼できる仲間を集めて、それをうまく動かす――それが勇者の一番の役割だ。あとは魔物にとどめさえ刺せばいい。戦うのは――俺達戦士の役割だ」
すっかり感心した様子のセレスと目が合う。その瞬間少年は目を逸らし、軽く咳払いする。
「そうは言っても、あたし強い人をたくさん雇えるほどのお金持ってないし、自分も頭数に加えないと厳しいんじゃないかな? って思うんだけど」
「最初のうちはな。まあ緑とか青とか言ってるうちは大した任務来ねーし、今のお前程度の実力があればそれこそ一人でも何とかなるだろ」
うーん、と唸りながらセレスは考える。
「でも魔獣って結構しぶといよ。村にいた頃、ステージUのやつと戦ったことあるけど本気で危なかったし……」
そこまで言って、ふと思い出したようにセレスは告げる。
「さっきこの人、魔獣と戦ったことあるみたいなこと言ってたけど……今のが全力だったとしたら、その、危なくない?」