何気なく言ったその言葉に、辺りがしんと静まり返る。
 きっかり三秒後、ゆらりとした動きで男が動き出す。周りの客が慌てて逃げるのを尻目に、ゆっくりとした動きでカウンター近くの壁際に近づいていく。
「あいつ――」
 男が何をしようとしているのか、真っ先に気づいたのは少年だったが、しかしその時には既に遅かった。
「おい……今、なんつった?」
 店主を突き飛ばすと同時にこちらを振り向いた男の目は、どう見ても正気ではなかった。瞳孔は不安定に拡散し、こめかみには妙な色の血管が浮かび、頬は不規則なリズムで引きつっている。そして何よりセレスに緊張を強いたのは、男の右手に握られた物体であった。それまで壁にかけられていたその機械は、セレスにとって初めて見る代物であったが――何をするための道具なのかくらいは、何となく想像がつく。
「あれって、弓……だよね?」
 セレスの問いに、少年は頷く。
「クロスボウってやつだ。引き金を引くと矢が飛び出る仕組みになってる。強盗避けに置いといたつもりなんだろうが、客に奪われてどーすんだよまったく」
 男はどう見ても尋常な精神状態ではなかった。矢の先はまっすぐにセレスの体を狙っており、ふとしたはずみでいつ引き金を引かれてもおかしくない。
「なんかすっごく怒らせちゃったみたい。あたしそんなにまずいこと言っちゃった?」
 慌てる様子のセレスに、少年は先程と同じ姿勢で椅子に座ったまま、全く冷静さを失わずに答える。
「痛いところを突かれたんだよ。まるで魔獣と戦ったことがあるみてーに言ってやがったけど、お前の言った通り、あの程度の実力で魔獣とまともに戦えるわけがねーんだ。せいぜいステージTの奴を囲んで袋叩きにするとか、できてその程度だろう」
 少年の言葉に、さらに興奮した男が歯を噛み砕かんばかりに軋ませるが、彼は全く意にも介さない。
「まあ、正面から撃たれたところでお前なら避けられるとは思うが……万が一ってこともあるしな」
 そう告げると、少年はそれまで乱暴にテーブルの上に乗せていた足を床に降ろした。瞬間、男の意識がそちらに向く。そして、少年は男の背後に、ぴたりと寄り添うように立っていた。
「――え?」
「動くな」
 振り向こうとした男に、冷たい声が突き刺さる。
 その場にいる誰もが少年の動きに気づかなかった。しかし現実として、先程まで椅子に座っていたはずの少年は、いつの間にか腰に下げていた長剣を抜き放ち、男の首筋に刃を当てている。それどころか、男の持っているクロスボウの弦までもが切られていた。
「き、貴様……っ!」
 冷や汗をだらだら流しながら、男は口をぱくぱくさせつつ言葉を発しようとするが、実際に声になったのはその一言だけだった。
 床にへたり込む男を、少年はしばし冷たい視線で見下ろしていたが――しかしすぐに表情を苦々しく歪ませると、飛び退くようにして男から距離を取った。
「……ちっ、やりやがった」
 男の座り込んだ場所から徐々に水溜りが広がっていくのを見て、他の客達も慌てて部屋の隅に退避する。
「おいおいおいおい勘弁してくれよ! 誰が掃除すると思ってんだよこれ! しかもくせぇし! ええいくそっ今日はもう店じまいだ!」
 店主までもが悲鳴を上げる中、ただ一人セレスだけは、呆然とした表情でその場に立ち尽くしていた。
「おいどうした? そんなところに突っ立ってると――」
「すっ――」
 たっぷりと溜めてから、セレスは少年に向かって飛びつきながら叫ぶ。
「ごおぉーいっ! 何今のすっごい、一体何をどうやったの? あたしずっと見てたのにどう動いたんだか全然わかんなかった。戦士ってみんなあんなことできるものなの?」
「……どうでもいいからとっとと離せ」
 セレスに全身でしがみ付かれる形になっていた少年が、押し殺したような声でそう告げてくる。
「あっごめん、つい興奮しちゃって」
「別に大したことじゃねーよ。今のは相手が雑魚だからうまく行ったようなもんだ」
「ってことは、一流の戦士なら今のを簡単に避けちゃったりするってこと?」
「当たり前だ。つーかそれ以前に――」
 少年がそこまで言った瞬間だった。何やら尋常ならざる雰囲気を感じ取ったセレスは、ほぼ反射的にその場を飛び退いていた。
 思わずバランスを崩し、テーブルや椅子もろとも床に倒れ込む。痛みに顔をしかめながら起き上がると――
「ま、こんなもんだ」
 それまでセレスが立っていた場所の、ちょうど背後にあたる位置に、少年が抜き身の剣を携えて立っていた。
「うっわ、自分がやられてみるとやっぱ怖いなぁ。背筋のゾクゾクが止まらないよ」
「とか言いつつ、ここまで完璧に避けられるとさすがに腹が立つんだが」
 あからさまに不機嫌な表情を隠さず、少年は剣を鞘に収めた。
「で、どうすんだ?」
 少年の問いに、セレスは首を傾げる。
「どうするって、何を?」
「何って――契約に決まってんだろ。今のやり取りで大体わかったが、俺の実力は総合的に見て……まあ、お前に多少毛が生えた程度ってとこだろうな。毎月の契約料はワイバーン金貨で二十五枚。ああ別に嫌なら嫌で、別に解約料よこせとか言わねーよ」
 ワイバーン金貨で二十五枚といえば、街に住む平均的な庶民の一家が一ヶ月、なんとか食うに困らない程度に暮らせる額である。駆け出し勇者にとっては決して軽い負担ではないが、一人の剣士が主に命を捧げる報酬としては最低限の底値と言ってもいいだろう。
「あっ、ごめん。全然考えもしてなかった」
 セレスはテーブルと椅子を直しながら立ち上がり、尻についたほこりを払ってから改めて向き直ると、少年に告げた。
「何ていうか、もうとっくに決まったものだとばっかり思ってたから。それじゃ改めてよろしくね。えーと……」
 そう言いながら、セレスは少年に向かって右手を差し出す。それを取ろうと少年が手を動かした時、数時間前にネーベルにされたことを思い出して思わずびくっとするが――彼はセレスの右手をしっかりと握り締めただけだった。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、ほんの少しだけ他の感情も混ぜつつ、セレスはその手をしっかりと握り返した。
「俺はアルコン。アルコン・エスパーダだ。お前はええと、セレスティア、でいいのか?」
「うん。呼ぶときはセレスって呼んで」
 と、そこまで言ったところでセレスはふと思い出したように、モップを持って事後処理に走り回っている店主に告げる。
「ところでおじさん、さっき何か『いろいろ問題がある』みたいなこと言ってたけどあれってどういう意味?」
 店主の動きがぴたりと止まる。しばらくセレスの言葉を理解するのに時間がかかっていたようだが、やがてため息混じりに答える。
「いや……この期に及んで何も感じないなら、今さら俺が言うことは何もないさ。これも何かの縁ってやつだろ」
 それだけ告げると、店主は「しかしこんなに強かったとはなー、ガキのくせに」などと呟きながら事後処理の続き、すなわち男の小便で水浸しとなった床の掃除を再開する。

 *

 二人で入口の階段を上がっていくと、ネーベルが口笛を吹きながら馬車を磨いていた。
「おっと、ずいぶん時間がかかったみたいですね」
「ふふ、ちょっといろいろあってね」
 上機嫌に答えるセレスの背後の人影に気付き、ネーベルは思わず驚きの声をあげる。
「あなたは――もしやアルコン・エスパーダ殿では?」
「……俺のこと知ってるのか?」
 露骨に嫌そうな表情でアルコンは応える。
「直接お会いするのは初めてだと思いますが、お噂はかねがね伺っております」
「ふん、どうせろくな噂じゃないだろう」
 言われて、ネーベルは少し考えてから返す。
「そうですね、生意気な子供剣士とか、いつも雇い主を怒らせてクビになってばかりとか、その筋ではかなりの有名人ですよ。さすがは悪名高きビックリメガネ、予想の斜め上を行く人選です」
 しかし、そう告げるネーベルの表情は明るく、不安そうな様子など微塵も感じられない。
「そんだけろくでもない噂聞いてる割には平然としてるな。心配じゃねーのか?」
「心配とは何の心配でしょうか? 実力面での心配は実はあまりしていません。あれだけいろいろ言われながらもその道で食べて行けている時点で、それなりの実力は保証されているも同然ですからね、今のセレスティア様の立場でこれ以上を望むのは高望みに過ぎるでしょう」
「いや、そうじゃなくて……」
「……ああ、なるほど。あなたの言動がセレスティア様を怒らせたりしないかどうか、ということですね? なるほど、普通の雇い主の場合はそういう問題が生じてきますよね。うっかりしていました」
「ちょっと、それってどういう意味?」
 横からセレスが口を挟むと、ネーベルは大げさに首を横に振って見せた。
「いえいえ、こちらの話でございます。決してセレスティア様が普通でないとかそういうことでは」
「んー別に普通じゃなくてもいいんだけどさ。でもそれって、何か普通の雇い主だったら怒るような問題があるってことだよね? それって何だろう……?」
「……さすがの俺にも、こいつを本気で怒らせるのは難しそうだ」
 呆れたような表情で深くため息をつくアルコンを見て、ネーベルは半ば独り言のように呟く。
「難しいのは、あなただからこそ、でしょうね。世の中にはいっぱいいますよ、セレスティア様を本気で怒らせることのできるような――困った連中がね」

「さて、次はどこに行くんだっけ?」
 セレスの声にネーベルは我に返り、持っていた地図に目を通す。
「次は……魔術師ギルド、ですね。ここから少し離れていますが何十分もかかるというわけではありません」
「魔術師ギルド? ってことは戦士はもう要らないのか?」
 アルコンが訊ねると、ネーベルは軽く肩をすくめながら答える。
「やはり魔法を使える者がいるといないとでは大違いです。最低でも魔術師を一人は入れたいところ――そうなるといかにあなたが超絶お買い得物件とはいえ、セレスティア様ご自身も戦力に数えられることを考えると、さらにもう一人戦士を入れるというのはコストバランス的にもよろしくありません」
 それもそうだ、とばかりにアルコンは頷く。魔術師はとにかく高くつく。たとえ駆け出しといえど、雇うのにかかる費用はアルコンの比ではないだろう。
「魔法については学院で一通り教わったけど、本物に会うのは初めてだなぁ……うーん今からドキドキしてきた。やっぱり黒いローブ着て杖とか持ってたりするのかな?」
 興奮で鼻息の荒くなるセレスとその一行を乗せて、馬車は一路、魔術師ギルドへと向かって走り出した。


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