その夜――
 近くの宿を取った一行は部屋を二部屋取っていた。割り振りは言うまでもなくセレスとリュミで一部屋、残りの二人でもう一部屋である。
 部屋に入る前に取った食事の間もリュミは一言も喋らなかったが、部屋でセレスと二人きりになっても彼女はやはり何も喋らなかった。
 セレスが汗だくになったシャツを脱いで、濡らした布でよく体を拭き、寝巻きに着替えたりしている間もリュミはやはり何も喋らなかった。
 それどころかベッドサイドに腰掛けたまま微動だにせず、視線すら動かさずにただその場にいる。
「うーん、これは筋金入りだなぁ」
 半ば困ったような、半ば感心したような顔でセレスは呟く。
 しかしこのまま放っておくわけにもいかない。恐るべきことにこの暑さの中ほとんど汗をかいていないように見えるが、さすがに着替えすらさせずに放置すればそのうち臭いを放つだろう。
 そういえば、とセレスは思い起こす。村の人達は皆いい人ばかりだったが、彼らの発するあの強烈な臭いだけは最後まで慣れることはなかった。せめて共に暮らす父親だけでも何とかしようと時々強引にひん剥いて頭から水をぶっ掛けたりしたが、そうすると今度は酒臭さが際立ってしまうのが悩みの種だった。
 さすがにリュミを父親と同じに扱うわけにもいかないが、だからと言って何もしないわけにはいかない。
「リュミ、そろそろ着替えない? この宿、寝巻きとかちゃんとあるし――ってやっぱり聞いてないよね」
 セレスが深くため息をつくと、意を決してリュミに歩み寄った。
「こうなったらしょうがない。実力行使あるのみ!」
 そう告げて服を脱がそうとするが、すぐにこのままでは脱がせられないことに気付く。
 あの熊のぬいぐるみだ。この期に及んでしっかりと右腕に抱え込んでいる。これを放してもらわないことにはどうしようもない。
「ちょっと、これそっちに置いてもいい?」
 やはり返事はない。しかしあからさまな拒否反応もないので、セレスは思い切って手を伸ばす。
 抵抗されるかと思ったが、ぬいぐるみは案外あっさりとリュミの手を離れる。セレスはそれをリュミと同じようにベッド脇に座らせると、いよいよ本命に取り掛かる――

 ――それが終わるまで実に三十分ほどの時間を要した。
 白く透き通った肌に包まれた、柔らかく繊細な肢体にセレスが心奪われ必要以上に丹念に体を拭っていたせいなのだが、その間中もやはりリュミは自分からは全く体を動かそうとしなかった。
 最後に寝巻きを着せると、リュミは突然弾かれたように動き、自らの横に座っていた熊のぬいぐるみを抱え上げ、いつものように右腕に抱えなおした。
「……本当に好きなんだね」
 むしろ終わるまで律儀に待っていてくれたことに感動を覚えつつ、セレスはリュミの横に並んで座った。
「頭洗うのは明日の朝でいいかな、もう外暗いし。でもやっぱりお風呂に入りたいよねお風呂。あっ、お風呂って知ってる? あたし学院で初めて知ったんだけど、こーんな大きい入れ物にお湯張って、どぼーんと中に入るんだよ。最初は水浴びのお湯バージョンかと思ったけど全然違ってて――」
 そんなことを話していたセレスの太ももに、何の脈絡もなく一つの荷重が加わる。
 思わず驚いて立ち上がろうとしたところで、その荷重の正体に気付く。
 なんと、横に座っていたリュミの体がこちらに倒れており、ちょうど頭がセレスに膝枕されるような形で乗っているのだ。
「ちょっ、リュミ大丈夫? まさか夕方にぶつかった時に――って、寝息?」
 スースーと規則正しく聞こえてくるそれは、まぎれもなく寝息だった。その寝顔からは当然何の表情も窺えないが、しかし心なしか安心しているように見えなくもない。
「……えーと、どうしようこれ?」
 動くに動けず、途方に暮れた表情でセレスは呟く。

 結局その夜、セレスはリュミの頭を太ももに乗せたまま上半身を後ろに倒して寝たのだが―― セレスの激しい寝相のせいで、朝起きた時には二人の体は変な形で絡まりあっていたという。
 もちろんリュミは、その間も自らは全く動こうとすることなく、ただ静かに寝息を立て続けていた。

 *

 朝――
 四人を乗せた馬車は、森に挟まれた街道をひたすら北に向かって進んでいた。
 広大な森を抜けたところを、そのまま進むと間もなく村に辿り着くはずだが、そこで街道を外れて進路を西に取ると正面に山が見えてくるという。その麓のあたりが今回の目的地だ。
「狼の姿をした魔獣が一匹。目撃証言が複数。既に村の人二人が犠牲になっている……でも本当に一匹とは限らないよね?」
「このような類の任務には必ず事前調査団が派遣されているはずですから、彼らがよほどのヘマをしない限り情報に間違いはありませんよ。まあ調査から二日ほど経っているであろうことを考えると、その間に状況が変わった可能性はゼロではありませんが」
 セレスの疑問に、御者台のネーベルが答える。
「それにしてもすごい森だねー。一体どこまで続いてるんだろう」
「森に入ってから三時間くらいか? だとすればあと一時間ってとこだろ」
 あまり使われていない街道らしく、今のところここまで誰ともすれ違っていない。
「うーん、これだけ通る人が少ないのに、この道あんまり雑草とか生えてないよね。きれいに土の地面がむき出しになってるし。なんでだろ?」
「実はこの道は、北征軍の行軍ルートとして年に何度も大軍が通る道筋になっているのです。だからこそ普段の人通りが少ないというのもありますが……。もう通り過ぎてしまいましたが、森の中には野営地の跡もあるはずですよ」
「北征軍って、王国の北の地に住む蛮族を討伐するための軍、だっけ?」
 学院で詰め込まれた雑多な知識の中から、セレスはなんとかその記憶を引きずり出す。
「その通りです。確か、この道を数日真っ直ぐ進むとアルコン殿のご実家である、エスパーダ家の領地に辿り着くはずですね。代々、エスパーダ家の当主は北征軍の中核を担い、毎度毎度多大な戦績を挙げられていると聞き及んでおります」
 ネーベルがそう説明しても、アルコンは黙ったまま動こうともしない。その様子に気付いたセレスがアルコンに訊ねる。
「家族と仲悪いの?」
「……どうだっていいだろ」
 吐き捨てるように告げるアルコンの言葉に、セレスはあっさりと頷く。
「うん。ちょっと気になっただけなんだけどね。実家って言われて思い出しちゃったけど、父さん元気にしてるかなぁ」
「……お前は親父と仲いいのか?」
 ためらいがちに発せられた質問に、セレスは少し考えてから答える。
「なんか喧嘩ばっかりしてた気がするけど、今思うとそれはそれで楽しかったなぁ。そもそも酔っ払い相手に口喧嘩で負けるわけないんだけどね」
 遠い目をして答えるセレスに、アルコンはさらにためらいがちに訊ねる。
「他に家族は?」
「父さんだけだよ。まあちっちゃい村だから、ある意味村みんなが家族みたいなものだったかも……あーでもやっぱり気になるなぁ」
「何が?」
「母さんのこと」
 何気なく言ったセレスの一言に、一瞬の沈黙が流れる。
 だが、そんな空気に構わずセレスは続ける。
「どうやら父さんもいわゆる本当の父親ってやつじゃないらしいんだけど、そもそも父親が子供産むわけじゃないんだからどっちでも大差ないと思うんだ。でも、やっぱあたしを産んだ母親ってのがどんな人なのかってのは興味があるなぁ」
「……親父からは聞けなかったのか?」
「うん、なんか聞かれたくないオーラが背中からあふれてる感じだったから。そういえば、『最も大切なものを奪われた』とか何とか言ってたけど、もしかしてそれと関係が……でも父さんが本当の父親ってやつじゃないなら関係ないのかな……?」
 腕を組んで考え込むセレスを前に、アルコンは深くため息をついた。
「なかなか複雑なんだな……つーか、よくそんな重たい話を気楽にできるよな」
 アルコンは自分の鞄から水の入った瓶を取り出し、ぐびぐびと飲み始める。そして、一息ついてから呟く。
「……一度機会があったら見てみてーな、その、お前が生まれ育った村ってやつをよ。一体どの辺なんだ?」
「うーん……確か王都の北東の方のはずだけど詳しい道まではちょっとわかんない。名前はデルニエの村とか呼ばれてるけど」
 セレスがそう言った瞬間、アルコンは飲みかけていた水を思わず噴き出した。
「ブッ……デっ……!」
 そんな様子に、セレスは不審そうな表情を浮かべた。
「デブ?」
「誰がデブだっ……お、お前、よりによってこんな時にそんな冗談を……いや、お前はそういう性格じゃなかったか……だとするとたまたま名前が……んなわけあるか、いくらなんでも偶然でそんな名前はつけねーだろ……くはっ、水が変なところに入った、けほっ」
 ひどく狼狽した様子のアルコンに、セレスはさらに問い詰めようとするが、そこに御者台からの横槍が入る。
「森を抜けましたよ。これから街道を外れて荒地に入ります。大きく揺れますので捕まっていて下さい。喋っていると舌を噛みますよ」
 言われて慌てて黙るセレスと、なおも咳き込み続けるアルコン、そして相変わらず表情一つ動かさないリュミを荷台に乗せて、ネーベルの操る馬車は街道を外れて荒地へと――魔獣の待ち受ける山麓を目指して進んでいく。


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