「ここが、目撃証言のあった場所か……」
 馬車を降り、周囲を見回しながらセレスが呟く。
 辺りはうっすらと霧に包まれ、多少見通しが悪くなっている。それでも、ここから少し進めば林が広がっていて、そのあたりから徐々に地面の傾きがきつくなっている様子は伺えた。
「魔獣はこの辺りに住んでいるのか、それとも山から降りてくるのか……どっちにしても、ここで待ってればあたしたちの匂いを嗅ぎつけて向こうから襲ってくるよね」
「ずいぶんと魔獣の習性について詳しいですね」
 ネーベルの賞賛ともいえる言葉に、セレスはにこりともせずに頷く。
「村で何度か戦ったことあるからね。ここの魔獣も似たようなタイプだと助かるんだけど」
 しかし、いかに魔獣と戦った経験があるとはいえ、勇者としてはまぎれもなく今回が初仕事であり、しかも今回は仲間の命を預かっているのである。さすがに緊張と無縁ではいられなかった。
「さあこっちは準備万端だよ。どっからでもかかって――」
 勇ましくそう宣言した瞬間――
 まさにその言葉に反応したかのように、霧の向こうから一つの影がこちらに向かってくるのが見えた。
「あれが魔獣? なんか様子が……」
 セレスが不審そうな表情を浮かべると同時に、アルコンから緊迫した声が飛ぶ。
「そっちだけじゃねえ、こっちからも来たぜ」
 アルコンが剣を抜き放ち、セレスから見て右側に向かって構える。その先からは、セレスの正面に現れた影と似たような大きさの影が迫ってくる。
「――こちらからも来ます!」
 ネーベルの声に、セレスはちらりと視線を左に向けた。
「一度に三方向から……やっぱり一匹じゃなかったんだ!」
 もしかして野生の動物が襲ってきたのかもしれない――などと考えられる状況ではなかった。何しろこちらは四人、そのうちの二人は武器を構えていて、さらに背後には象より大きな馬車が置いてあるのである。そんな状況で襲ってくる野生動物などいるはずがない。
「まさか三匹とは……ちょっと調査団の能力を過信しすぎていたようですね」
「待て――まだいるぞ!」
 アルコンの声に、セレスは周囲に視線を走らせる。
「ちょっ……何これ、こんなのってあり?」
 思わず狼狽の声を上げてしまってから、セレスは慌てて口をつぐむ。この場の指揮を取る自分がそんな声を上げてしまえば、仲間の動揺を招くと気付いたからである。だが実際のところ、セレスが思わずそんな声を上げてしまうのも無理からぬ状況ではあった。
「全部で十匹はいますね。しかも既に完全に囲まれています」
 ネーベルが的確に状況を告げる。
「包囲されてる上に速さでも勝てない、となると撤退は不可能……」
 そう言いながらセレスはポケットからいくつかの爆弾を取り出し――思わず取り落としそうになった。
「おい、どうしたんだ?」
「あ、あれ……」
 アルコンの問いに、セレスは恐る恐るといった様子で霧の向こう、正面から現れた新たな影を指差す。
「……あれは、まさか……!」
 さすがのアルコンも驚愕を隠せない。そこに追い討ちをかけるかのように、ネーベルの解説が続く。
「恐らくあれが親玉でしょう。あえて近い動物を挙げれば……熊、に見えますね。しかしあんな熊が存在するはずがありません」
 輪郭だけを見れば、なるほど確かに熊のようなシルエットをしている。
 だがその毛並みの間には、何やら黒い鱗のようなものが見え隠れしている。地面を踏みしめる足の先に生えている鍵爪は、明らかに金属的な光沢を放っていた。頭に生えている二本の鋭い角に至っては、もはや自らが熊などではないことを主張しているようにしか見えない。
「間違いありません。あれはステージVの魔獣です」
 その言葉に、セレスとアルコンは二人揃って絶句する。

 かつて村を滅ぼしかけた怪物。いかなる武器で傷つけようと、見る見るうちに再生していく脅威の生命体。目の前で次々と八つ裂きにされる村人たち。胴体から千切れ飛ぶ父親の右腕。
 自らの手足がガタガタと震えていることに、セレスははっと気付く。だが気付いたところで止められない。子供の頃の遠い記憶が、いや遠い記憶だからこそ、意思に反して勝手に脳裏に広がり、制御不能な暴走を引き起こす。
 セレスは何かしら声を上げようとするが、乾ききった喉からは空気しか漏れない。しかし熊の魔獣は一歩、また一歩と着実にこちらに向かって足を進めてくる。
「や――」

 震える唇が開いたその時、突然、セレスの右手の震えが止まった。
 正確には、半ば強引に止められていた。思わず振り向くと、いつの間に傍に来ていたのか、そこにはセレスの右手をしっかりと握り締めるアルコンの姿があった。
 右手以外の場所、すなわち左手や両足や唇や背筋などは相変わらず震えているのだが、右手だけは嘘のように震えが止まっている。
「やるしかねーだろ」
 アルコンは、言い含めるようにしてセレスに告げる。
「理屈から言えば、お前はあいつを倒せるはずだ。こうなった以上、ネーベルやリュミにも全力で戦ってもらう。それであいつを袋叩きにするから、あとはとどめを刺せばいい」
 なるほど、確かに言っていることは間違っていない。そう無理矢理自分を納得させて、セレスは全身の震えをなんとか止めようとするが――
「アルコン……ちょっと力を貸して」
 どういう意味だ、とアルコンが聞き返す前にセレスは行動に出た。
 それまで左手で握っていたつるはしを地面に放り捨てると、突然、正面からアルコンに抱きついたのである。
「なっ――こんな時に何を」
「お願い、もう少しこのままでいさせて」
 突然の事態に硬直するアルコンの小さな体を、セレスはさらに強く抱きしめる。
 思った通りだった。こうしていると、不思議と全身の震えが治まり、なぜか心までもが嘘のように落ち着きを取り戻していった。
 しばらくそうしていた後、セレスはゆっくりとアルコンの体を離すと、地面に放り投げたつるはしを拾い上げ、そしてしっかりと構え直した。
「ありがとう、もう大丈夫。次こうやって震えるようなことがあったらまたお願いね」
「無茶言うなっ! くそっ、余計なことが頭にちらついて集中できねー……」
 ようやく調子を取り戻したセレスは、今度は残る二人に向かって言った。
「リュミ、あたしたちがこいつら引き付けてる間に、何とか魔術をぶっ放して! ネーベル、あなたはリュミの護衛をお願い!」
 有無を言わさぬ口調に、ネーベルは渋々といった調子で頷いた。
「どこまでできるかわかりませんが、やってみましょう。状況が状況ですからね」
 リュミはもちろん無反応だが、セレスはなんとか通じたと信じることにした。
「アルコン! あたしたちはしょっぱなから親玉狙いで行くよ! そうすれば周りの小物は――」
「俺達だけを狙ってくる、か。言っとくが危険だぞ?」
 止めるつもりではなく、あくまで事実の確認の意味を込めてアルコンは言った。
「自慢じゃないけどあたし頭悪いから。残念なことに、危険じゃない方法が一つも思い浮かばなかったの」
「それは残念だったな」
「それじゃ、作戦開始!」
 セレスはそう高らかに叫ぶと同時に、ポケットからありったけの爆弾を取り出し、辺りに向けて一斉にばら撒いた。
 内臓にまで伝わるような衝撃が、立て続けに周囲の空気を揺らす。それまで一糸乱れぬ連携で包囲を狭めつつあった魔獣たちが、突然の出来事に慌てふためく気配が伝わってきた。一匹くらいは直撃して吹っ飛んでいることを祈りつつ、セレスは真正面に待ち構える一番の大物、すなわち熊の魔獣に向かって突っ込んでいった。その斜め後ろからアルコンも続く。早くも混乱から脱した狼のうちの一匹が、二人の動きに気付いて向かってくる。
「よしっ!」
 セレスは思わず叫ぶ。他の、いまだ混乱から脱しきれない狼たちとの連携を欠いた突撃――それをセレスはまさに待ち構えていた。
 何の予備動作もなく振り向くと同時に、セレスはつるはしを大きく振り回した。それは完全な不意打ちとなり、間近にまで迫っていた狼は避けようと考える暇すら与えられずに串刺しとなった。
 狼を迎え撃つために立ち止まったセレスを、長剣を構えたアルコンが追い越していく。地下酒場の斡旋所で見せたあの動きを、しかも今回は全くの遠慮も手加減も無しに再現し、熊の背後に回りこむ。
 正確に狙い澄ました切っ先を、アルコンは鱗と鱗の継ぎ目の毛が生えている部分に突き通した。
 どす黒い色の血が噴き出し、アルコンの上半身を汚す。深々と突き刺さった剣を、熊の背中に片足を乗せて、渾身の力を込めて引っこ抜く。
 剣が抜けた瞬間、さらに大量の血液が辺り一面に飛び散った。その血の匂いで周囲の狼たちは興奮し、さらなる統率の混乱を招いた。
「やったっ?」
 そんな狼のうちの一匹と対峙しながら、セレスは振り向きもせずにアルコンに問う。
「まだだ!」
 彼の言う通りだった。剣先は確実に内臓を傷つけ、普通の動物であれば明らかに致命傷だったはずであるが、どうやらこの熊の魔獣にとっては痛くも痒くもないらしい。既に血が止まったばかりか、新たな肉が見る見るうちに発生し、傷口を埋めるように蠢いている。
 数秒と経たないうちに、その傷口は腐ったようなピンク色の肉で完全に塞がれていた。さすがに体毛までは再生しないらしく、真新しい肉が鱗の隙間から盛り上がっている様子が目立っている。
「じゃあ今度はあたしが――」
「いや、こいつはお前だけを警戒している。お前が一番ヤバいってわかってやがるんだ。だからこそ俺は後ろを取れたが、こいつと正面からやり合うのは――」
 そう告げるアルコンの背後から一匹の狼が襲い掛かる。まさに口を開いて飛びつこうとした瞬間、アルコンは振り向きざまにその狼の腹を切り裂いた。
「この狼みたいには行かねえ。一人じゃ危険すぎる」
「だったらとにかく狼の方を減らさないと!」
 残る狼は八匹。そのうちの数匹は先程の爆弾攻撃で負傷したようだが、それも徐々に治りつつあるようだ。そして肝心の熊に至っては、ほとんど無傷と言っていいだろう。
 その時だった。熊が大きく咆哮を上げると、八匹の狼たちが一斉に突進を開始した。
「来るっ!」
 セレスとアルコンは互いに目配せし、すぐさま背後のネーベルとリュミを守る位置につく。
 自分に三匹が同時に向かってくるのを見て、セレスはそれを完璧に無視した。代わりに斜め後ろ方向からリュミを狙ってくる一匹に向かってつるはしを振りかぶる。その一撃は回避されたが、一匹の注意がリュミからセレスに移った。
「これで四匹――」
 同時に引き付けるのはこれが限界だろうとセレスは悟った。一度に飛び掛られたら防ぎようがないので、そうならないような位置に絶えず移動する。
 だがその時――セレスを追い回していた四匹のうちの一匹が、突然進路を変えてリュミに向かって突進を開始した。
「しまっ――!」
 慌てて振り返ると、ネーベルは別の一匹の対処に手一杯で、リュミは完全に無防備な状態に置かれていた。このまま突進を許せば、三秒後には間違いなくリュミが血祭りにあげられるだろう。
 考えている暇はなかった。この状況で残りの三匹に背を向けるのは危険を通り越して愚かですらあったが、他に手段はない。リュミに向かう狼を追ってセレスは走り出す。
 その行く手には、それまで全く表情の宿っていなかったはずの目を見開き、しっかり抱きかかえていたはずの熊のぬいぐるみを地面に取り落とすリュミの姿があった。
 つるはしを構えている余裕はない。いちかばちか、セレスは身を投げるようにして飛びつき、まさにリュミの頭を噛み砕くべく跳躍した狼の後ろ足を握り締める。そしてそれを全力で引っ張り寄せて進路を強引に変えると、もつれ合うようにして地面に転がり込んだ。
 狼は爪を立てて抵抗する。セレスの腕や脚に、まさに刃物で斬られたかのような傷が刻まれ、おびただしい量の真紅の血が飛び散る。だがそれでも、セレスは狼の体に組み付いたまま離そうとしなかった。
 そしてついに、セレスは狼の首に腕を回し、渾身の力を込めて引き倒した。
 首を絞めるなどという次元ではない。骨が砕ける音とともに、狼の体が激しく痙攣する。
 次の瞬間、狼の体は武器で倒したときと同じように、光を放ちながら崩れていった。
 だが狼の命と引き換えに、セレスは致命的な隙を晒すこととなってしまった。
 武器を放り捨て、傷だらけとなったセレスが立ち上がったところに、まさにこの機を窺っていた熊の魔獣が、もはや小細工など施さず一直線に突っ込んで来た。
 せいぜいセレスの二倍程度の体重しかない狼の魔獣とは訳が違う。目の前の熊はどう見ても、狼のさらに五倍の重さはありそうだ。素手で勝負を挑もうものなら、一瞬にして鉤爪で刻まれるか、あるいは全身の骨を砕かれるだろう。
 何とか武器を拾って対抗するしかないが、先程もみ合いながら転がったせいでずいぶん距離が離れてしまった。このままでは間に合わない――
 その瞬間、横から飛び込んできた影が、熊の頭に鋭い一撃を振り下ろす。
 衝撃で、一瞬だけ熊の動きが止まる。だがその一撃は頭蓋骨に阻まれ、ダメージそのものはほとんど大したことがないようだった。
 熊が邪魔なものを振り払うように腕を振ると、その一撃で跳ね飛ばされたアルコンが、セレスを通り過ぎて転がっていく。
「くっ、なんて奴だ――!」
 なんとか防ぎきったらしく、アルコンはすぐに立ち上がる。だが、彼の体に不釣合いなほど長かったはずの剣の刃が、いつの間にか人参程度の長さにまで縮まっていた。どうやら先程の一撃でへし折られたらしい。
 もはや次の一撃を防ぐ手段はない。今度こそ、熊は何の遠慮もなく、なんとかセレスの身だけは守ろうと立ちはだかるアルコンには目もくれず、唯一危険な相手と判断したセレスにのみ焦点を合わせて――

 くまさんファイアー。

 そんな幻聴が聞こえた気がした。
 絶体絶命の極限状態で、セレスは自分の耳がおかしくなったのだろうと思った。
 だが幻覚はこれで終わりではなかった。たった今まで熊の姿をした魔獣と戦っていたからだろうか、熊のぬいぐるみが立ち上がり、自ら歩いている様子が視界に入る。
 なるほど、おかしくなったのは耳ではなく心の方だ、とセレスは妙に冷静に納得した。
 熊のぬいぐるみは口を開くと、燃え盛る火炎弾を唐突に発射した。動くぬいぐるみの姿がファンシーな分、実際に何もかもを焼き尽くす熱量を持ったそれは妙に生々しく、この世の無情を体現するかのような存在に感じられた。
 そしてそれは一直線に突き進むと、ぬいぐるみとは対照的にどう見てもグロテスクの塊としか思えない熊の魔獣を飲み込むと同時に、破裂するように激しく燃え上がる。肉が炭化する音と臭い、そしていびつな生命の発するゆがんだ叫びが、辺り一帯にこだまする。

 そこから先――セレスの体はほとんど勝手に動いていた。
 つるはしの落ちている場所まで駆け寄り、拾い上げてしっかりと構えなおす。熊の魔獣は頭部を含めた体の大部分が炭化していたが、まだ一部の火が消えていないうちから再生を始め、半身が腐ったピンク色の肉塊のようになっていく。セレスが駆け寄る間にも、肉の間から鱗や骨などが次々と生まれていく様子がはっきりとわかる。
 セレスがつるはしの先端を打ち込んだ時点では、まだ頭部は完全には再生していなかった。したがって、この魔獣は自らの最期を認識することができなかったはずだ。
 肉塊の蠢きがぴたりと止まり、再生に向かっていた肉体はその数倍の速さで崩壊へと向かう。かつてないほどの輝きに包まれながら、砕けるというよりは爆発に近い勢いで、その存在は無へと還っていく。
 全てが終わった瞬間、セレス、アルコン、ネーベル、そして生き残った七匹の狼の魔獣すらも、完全な沈黙と静寂の中に佇んでいた。
 ただ一人、熊のぬいぐるみの背後に立つリュミを除いて。
 リュミの口が開き、細い声が漏れる。
 その声を聞き届けたかのごとく、熊のぬいぐるみは再び口を開き、燃え盛る火炎弾を立て続けに発射する。爆発が八回、そして同じ数の狼の魔獣が炎に包まれ、一瞬にして前進を消し炭へと変えていく。熊の魔獣と違ってセレスがとどめを刺すまでもなく、彼らはそのまま跡形もなく燃え尽きていった。


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