やがてつり橋に辿り着いた二人は、振り返りも立ち止まりもせずに一気に足を踏み入れた。
 二人が走ることによりつり橋は大きく揺れるが、ここが最後の踏ん張りどころとばかりに、セレスはバランスを維持しながら向こう岸に向かって駆け抜ける。
 まずはアルコンが渡り終え、続いてセレスも渡り終えた。少し離れた前方から、ネーベルが心配そうにこちらの様子を窺っているのがわかる。
 既に何匹もの猿がつり橋に足を踏み入れ、こちらに向かって殺到しようとしている。セレスはリュミを地面に降ろすと、慎重にタイミングを窺った。
「……そろそろかな」
 そう呟くと、セレスは右手をポケットに突っ込み、一本の紙巻を取り出した。
「それが、さっき言ってた新型ってやつか?」
「村から持ってきたやつは昨日全部使っちゃったからね。学院で算数習ったおかげで、それまで勘に頼ってた調合が安定してできるようになったから――」
 そう告げながら、その紙巻から生えている紐のようなものを引っこ抜くとほぼ同時に、大きく振りかぶり、そして思いっきり放り投げる。
「配合を変えていろいろ作ってみたの。これがそのうちの一つで……」
 投げ放たれた『新型』は、綺麗な放物線を描いて着地する。そこはつり橋のほぼ中央、セレスたちを追ってきた猿が最も多く密集している場所で――
「とにかく大威力! 城壁に一発で穴を空けることを目標にしてみ――」

 最後の部分はかき消され、誰の耳にも届かなかった。
 爆風は、爆心地から遠く離れたセレスたちのいる場所まで押し寄せ、リュミの長髪が激しく煽られる。
 大砲を十発くらい同時に鳴らしたような轟音とともに、キノコのような形をした煙が巻き起こり、辺りを照らす炎の光とも相まってあたかも火山の噴火のような様相を呈している。
 そして肝心のつり橋は、両端の部分を除いて、中央部が根こそぎ炭の粉となって吹き飛び、上に載っていた猿を含めて何もかもが消え失せていた。
「……成功?」
「――いや、明らかに失敗だろこれは。城壁に穴どころか、城門丸ごと一発で吹っ飛ぶぞこれは」
 呆れたようにアルコンが呟く。
「……ま、まあ大は小を何とやらって言うしね。ちなみにこれの他にも、見た目の威力はこれ以上だけど実際は木箱すら壊せないハッタリ爆弾とか、コショウの粉を周りに撒き散らすクシャミ爆弾とかいろいろ作ってみたんだよ」
 セレスがそんな説明をしていると、ネーベルの乗った馬車がこちらに近づき、目の前で止まった。
「一体何事ですか? 見たところ、ずいぶんと切迫した事態のようですが」
「なんか変な猿の大群に襲われたの。とりあえず道は塞いだけど、正体がわからない以上ここにもあんまり長居しないほうが良さそうだね。アルコン、リュミ、すぐに馬車に――」
 そう言いかけて、セレスは動きを止める。
「……リュミ、あのさ、何やってるの?」
 見ればわかるのに思わず訊ねてしまったセレスの目には、先程までお姫様だっこされていたリュミが、地面に降ろされてからもセレスにしがみ付いて――さらに言うならば、左手でセレスの右胸を掴み、横向きにした顔をセレスの左胸に押し付けているように見えた。ちょうどセレスの心臓のあたりにリュミの右耳があるので、鼓動の音が聞こえているかもしれない。
「リュミエール殿がもしも男性だったら――」
「――今すぐ斬り捨ててるところだな」
 意見の一致したネーベルとアルコンが、顔を合わせて同時に頷く。
 どうやらふざけているわけではなく、妙に真剣なリュミの様子に、セレスは振りほどくわけにも行かず、困ったように頬をかく。
「まいったなぁ……まあいいや、このままもう一度抱えて馬車に乗せるしかないか」
 そう言いながらリュミを抱え上げようとした瞬間――

 ふと空気が不自然に動く気配を感じたセレスは、リュミを力ずくで突き飛ばしながら振り返る。
 そこには拳を振り上げた猿の姿があった。拳が振り下ろされた先にはセレスの頭があり、とっさに反応するものの完全には防げなかった。
 文字通り人間離れした怪力で殴られ、セレスは吹っ飛びながら危うく意識を失いかけた。そのまま地面を転がるが、朦朧とした頭を抱えてなんとか立ち上がる。
「くっ、道は断ったと思ったのに……アルコン、つるはしちょうだい」
「ちょっと待て……これはヤバすぎるぞ」
 預かっていたつるはしをセレスに手渡しながら、やや震えた声でアルコンが告げる。
 いつの間に囲まれていたのか、誰も全く気付かなかった。百匹以上の真っ白な猿の群れが、セレスたちのいる場所を中心としてひしめいている。
 こうなっては逃げ場などない。しかも相手は、倒しても倒してもいくらでも出てくる謎の生き物である。もはや打つ手は残されていなかった。
「ごめん、あたしの力不足でこんなことになっちゃって……謝って済むことじゃないけど。でも諦める前に一つだけお願いがあるの」
 セレスの声が震えている。もはやどうしようもないことを知りながら、最後の悪あがきであると認識しながら、それでも言わずにはいられなかった。
「あたしが頑張って時間を稼ぐから、何とかして、この猿の正体を暴き出して。そうすれば、もしかしたら、ひょっとしたら、何人かは生き延びられるかもしれない――」
 悲痛とも思えるセレスの言葉に、アルコンもネーベルも言葉に詰まり、何も返答ができなかった――

「わかりました」
 だが一人だけ、そうはっきりと答える者が存在した。
 その声は、無機質を通り越して機械的ですらあった。これほどまでに何の感情も込められていない声をセレスが耳にしたのは、間違いなく生まれて初めてのことだろう。
 しかし、その声質自体は今までに何度か耳にした覚えがあった。その時も確かに感情はほとんど篭っていないようだったが、しかしここまで極端ではなかったはずだ。
 猿の大群に囲まれて絶体絶命の状況であることも忘れて、セレスは恐る恐る振り返る――

 そこに立っていたのは、確かにリュミエールのはずだった。
 汚れ一つない白銀の長髪も、くすみ一つない真っ白な肌も、フリルだらけのドレスのような黒い装束も変わっていない。
 変わっているところがあるとすれば三つ。一つは熊のぬいぐるみ――相変わらず手に持ってはいるのだが、今までのように大事に抱えているというよりは、ただ持っているだけという感じである。
 二つ目は瞳。今まで不安定な緑だったはずの瞳が、まるで血で染めたかのような紅に染まっている。
 そして三つ目は表情。確かに今までも無表情で、何を考えているのか少しでも読み取れるのはセレスくらいのものだったが――今の彼女の表情からは、セレスですら何一つとして読み取れなかった。それほどに徹底した無表情。人形でさえ普通は多少の表情をつけて作られるものだが、それに似た片鱗すら窺えない。
 彼女の右手が、すっと持ち上がる。指先で宙を指し示したかと思うと、それは素早く動き、光の軌跡を空間に残す。それは星型を丸で囲んだような図形を描いていた。
「五茫星――まさか暗黒秘術を?」
 思わず漏らしたネーベルの言葉に、彼女は否定の答えを返す。
「その呼び名は正しくありません。暗黒、すなわち闇という一面だけでこの式は成り立ちません。光と闇、陽と陰、白と黒、壱と零。相反する二つの要素を組み合わせて、この世の法則に基づいて存在する五種の力の向かう先を制御し、仮想的に組み立てられた理論は一つの世界を構成し、既存の世界を覆す――」
 そう告げられると同時に、空間に描かれた五茫星は輝きを放ち、それを巨大化した上でさらに細かく描いたような魔法陣が地面を覆い尽くす。
「光陰の秘術――古い書物には、そう記されています。いかなる霊的な素養も必要とせず、ただ純粋な理論の存在によってのみ行使されうるという点で、他の系統の魔術とは決定的に異なる存在です」

 その言葉が終わる頃には、既に現象は始まっていた。
 辺り一面が妙な色の霧に包まれ、猿たちの動きが完全に静止する。
 まず異変が生じたのは周囲に生える草だった。それらは一瞬にして色を失い、しかし枯れるでもなくその動きを止める。次に影響を受けたのは木々だった。徐々に色を失い、灰色がかった木々は風に枝を揺らすのをやめる。
 最後の影響を受けたのは猿だった。元々白いそれに目に見えて変化が現れるまでには十数秒の時間を要したが、実際に起こってみるとその変化は一目瞭然だった。半ば透き通っていたはずのその体は、いつの間にか冷たく硬い石の像へと、その在り様を根本から変化させていた。
 灰色の草原、灰色の木々、そしてそこにひしめく猿の石像。そんな空間にありながら、四人と一頭の馬、そしてそれに牽かれた馬車のみが、石像に囲まれた中心で色彩を保っていた。
 そしてそんな現象を引き起こした少女は、軽く右手の指を鳴らす。
 その瞬間、灰色に染まった何もかもが、一斉に粉々に砕け散った。
 大量の砂煙が巻き起こるが、それは一陣の風によって瞬く間に吹き飛ばされ、その後には文字通り、草木すらも根こそぎ失った大地が、裸の姿を晒していた。

 少女の視線は、何もかもを失った大地の中に、ただ一つ残された一点に向かっている。セレスの視線も自然とそちらを向く。
 そこには――腰を抜かした一人の見知らぬ女性が、驚愕の表情を浮かべながら座り込んでいた。
 その女性に向かってすたすたと歩み寄るリュミの背中を、セレスは慌てて追いかける。その後からアルコンとネーベルもついて来る。


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