だが、それを声にするより早く、信じられない事態が起こった。
それまでセレスの目の前に立っていたはずのリュミエール――あるいはオプスキュリテと呼ぶべきか―ーの体が、何の前触れもなく真横にすっ飛んだのである。どうやら頭からすっ飛んだらしく、妙な横転を繰り返しながら、まるで糸の切れた人形のように地面に倒れ伏す。
先程の猿以上に唐突な出現だった。リュミがすっ飛ぶ姿を目にしてからでさえ、そこにその男が存在することに、残りの三人の誰一人として気付かなかったのだ。
完全に気配を断っていたその男は、長い金髪を風になびかせつつ、現れてからもただ立っているだけのように見える。だがそこから放たれる恐るべき存在感は、倒れたままぴくりとも動かないリュミに駆け寄ることすら許さなかった。
「賢者級の魔術師か。情報にはなかったな。正面から戦えば厄介な相手だ。しかし先制すればどうということはない」
男はどこまでも冷徹な声で告げる。オプスキュリテの声にはそもそも温度も感情も存在しなかったが、それとはむしろ対照的に、彼の声にははっきりと冷たさが存在していた。
「あともう一匹妙なのがいるな――なぜこんな所にいるのかは知らないが、邪魔なので眠っていてもらおう」
次に発せられたその声は、異常なのは声色でなくむしろそれの響いた場所だった。セレスとアルコンには、その声はまるでネーベルが発したかのように感じられたが、実際にそれが発せられたのはネーベルの背後、ほとんど密着するような位置だった。ネーベルには慌てて振り向こうとする時間すら与えられなかった。彼の全身に火花のようなものが散ったかと思うと、一瞬だけ硬直した体はすぐに力を失い、妙な姿勢で地面に崩れ落ちる。
「な、何今の……!」
今のような光景を、セレスはどこかで見たことのあるような気がした。しかしもちろんそんな気がしただけで、そもそも厳密には今の光景は見えてなどいなかったのだから。当然、彼が何をしたかなど想像もつかなかったが、しかし結果だけはあの時に似ていた。
あの時ってどの時だろう、などと考えてつつ、しかし今はそれどころではないと思い直す頃には、男は次の行動に出ていた。足音も立てずに、相変わらず気を失ったままのミヌレに近づくと、その背中をいきなり踏みつける。
「ぐはっ!」
変な息を吐き出しつつ、ミヌレは意識を取り戻す。無理矢理活を入れられたためか、彼女は地面にうずくまって咳き込んだ。そんなミヌレに、男はもう一発蹴りを入れた。ミヌレはひっくり返りながら男を見上げ、そして我に返ったように驚きの声を上げる。
「ア、アギラ! 待って、違うの、あたしは――」
「うるさい」
さらにもう一度蹴りを入れ、アギラと呼ばれた男はミヌレを黙らせる。
「誰も初めからお前ごときに期待などしていない。どうせ俺の命令だということも問われるままに話したんだろう」
「……あ、あのリュミエールとかいう娘は? あの娘があたしを……」
「つまりそいつに脅されたというわけだな。お前の頭の緩さにはほとほと愛想が尽きていたところだ。そろそろレオパルドに例の事実を告げるべきか」
「お、お願い! それだけは――」
そう懇願するミヌレの頭を、アギラは容赦なく蹴り飛ばす。どうやら正確に入ってしまったらしく、ミヌレは再び気を失った。
「……今の衝撃で余計に緩んでしまったか。まあどうでも良いことだが」
そう吐き捨てると、アギラはゆっくりと視線を向けた。
――先程から微動だにせず、脂汗を垂らすアルコンに向かって。
「さて、あれから一年経ったわけだが」
その一言に、アルコンの頬が一瞬だけ引きつる。
「正直言って呆れ果てている。気の迷いかと放っておいたが、まさかこんな惨めな立場に一年も甘んじ続けるとは――どうやらエスパーダ家の誇りすらも置き忘れてきたようだな」
それはどう聞いても侮辱の言葉にしか聞こえなかったが、アルコンはそれに対して何の反応も返すことができずにいる。
「若いうちに勇者のパーティに加わり、名と腕を上げる。確かにエスパーダ家の慣わしではあるが――お前には十年早い」
そしてアギラはつかつかと歩み寄ると、アルコンの腕を有無を言わさずに握り、そして告げる。
「帰るぞ」
「……嫌だ」
そう口答えした瞬間、アギラの振り上げた足がアルコンのみぞおちに見事に決まる。呼吸ができなくなり、腹を抱えてその場に倒れ込むアルコンの上から静かに言葉を浴びせる。
「我儘が許される立場ではないと、いい加減に弁えたらどうだ。お前がいかに出来損ないであろうと、エスパーダ家の継承資格を持つ一人であるという事実は動かぬのだからな」
「……べ、別に……俺が……継がなくても……」
「もちろん俺が継ぐことになるだろう。だが俺にもしものことがあったり、あるいは世継ぎが生まれなければ、お前かもしくはお前の血を引くものが次の候補だ。ゆえに、これ以上世の中に恥を晒すような真似は俺が許さん」
「――ちょっと、黙って聞いてれば、あなたさっきから一体何なの?」
ついに我慢できなくなったセレスの言葉に、アギラは興味のなさそうな視線とともに振り返る。一方、アルコンの表情には焦りが浮かぶ。その表情を見れば、アギラの矛先が自分からセレスに向くのを恐れているのは明らかだった。セレスはそれに気付きながらも、あえて気付かない振りをしつつアギラに向かってさらに告げる。
「なんかアルコンのこと連れて帰りたがってるみたいだけど――あなた、アルコンのお父さんか何かなの? だからってこんなやり方ひどすぎるよ!」
さすがに父親と言われるとは思っていなかったのだろう、アギラの反応が一瞬固まる。
ようやくまともに呼吸ができるようになったアルコンがすかさず告げる。
「そいつは……俺の兄貴だ。セレス、頼むからそいつとは」
「どっちでもいいけど、そんなやり方で連れて帰ろうって人にアルコンを渡すなんて……!」
そう怒鳴りつつ、セレスは改めて目の前の男を観察する。
特徴的な長い金髪は、なるほど確かにアルコンの髪の色とそっくりではあるが、それ以外には特に似ているところは見当たらない。あえて言えば瞳の色も近いかもしれないが、クールを装いながら妙に熱いところのあるアルコンとは対照的に、アギラの瞳はただただ冷たい。
「お前が雇い主の勇者だな」
確認のためなのかどうかは知らないが、アギラは見ればわかりきったことをあえて訊ねる。
「そうだよ」
「なら悪いが解約してもらおう。これは違約金代わりだ」
そう言いながら、彼は何やら光る石のようなものをセレスに投げてよこした。
反射的に受け取りながらそれに目をやる。自ら淡い光を放つそれは、セレスにとってなじみの深いものではあった。しかし一つだけ決定的に異常な点が存在するとすれば、それは拳大ほどもあるという常軌を逸した大きさだろう。
「ステージWの魔石だ。然るべき店で換金すれば、ドラゴン金貨で数百枚分にはなる。この程度の三流剣士の値段としては破格――」
最後まで言い終わらないうちに、アギラの手にはその石が再び収まっていた。セレスがアギラの顔面めがけて投げ返したものを、反射的に受け取っていたのだ。
「――なるほど」
アギラは大きくため息をつくと、腰の長剣を静かに抜き放つ。それは最も高い位置まで昇った太陽に照らされ、眩しい光を放った。
「ならば仕方ない。どんな手を使ってでも連れて行く。それが嫌なら止めてみるが――」
いい、とアギラが告げる直前だった――セレスの目の前で爆発が生じ、あたり一面が黒い霧に包まれる。一瞬にして何もかもを巻き込んだ霧の中で、いつの間にか顔のほとんどを布で覆っていたセレスだけが猛烈な速度で動いていた。
「これは――胡椒だと?」
訳がわからないといった様子で呟くアギラの位置を察知したセレスは、そこに向かってつるはしを振りかざし――しかしその瞬間、セレスのつるはしはいとも簡単に弾き飛ばされ、しかもセレスの手を離れてどこかへと飛んで行ってしまった。
「……まさか、この程度の小細工が通用するとでも思ってい」
最後の部分は爆音にかき消された。セレスが半分地面に埋めておいた爆弾を、彼はどうやらまともに踏んでしまったらしい――脚の一本くらいは吹っ飛んだかもしれない。
「……訂正しよう」
爆発地点から立ち込める煙の向こう側から、アギラの声が聞こえる。
「正直、まさかここまでするとは思わなかったものだからな。少々油断していたという事実は認めざるを得ない」
徐々に晴れてきた煙の中から現れたその姿に、さすがのセレスも驚きを隠せなかった。
どう考えても爆弾をまともに踏んでいたにも関わらず、どうやら負傷らしい負傷はしていないようだ――靴が多少焦げてはいるようだったが、逆にそれは何のトリックも無しに、踏んでから爆発が広がるまでの間に十分な距離を取ったという恐るべき事実を示しているに過ぎない。
おまけに、彼の手には長い針が数本握られている。気を失って倒れているネーベルの懐からこっそり掏り取っていたものを、セレスが爆発と同時に数本まとめて投げたものだ。爆発の衝撃から逃れながら、なおかつ煙の向こうから飛ばされた細い針を、一本残らずまとめて受け止めるというのはどう考えても人間業とは思えない。
「喜ぶがいい」
決して喜ぶべき内容でないことは、言われずとも声の調子だけでわかる。
「俺はお前を、全力で倒すべき相手と認めた。お前は誇りに思っていい。ただ一つ残念なことがあるとすれば、それを誰かに対して誇る時間がお前には与えられないということだ」
そう告げるアギラの姿が、ゆらりと揺れる。それを目にしたアルコンが必死の形相で何やら叫ぼうとするが、声になっていなかった。
「せめて苦しまないようにしてやる。安らかに眠るが良い」
そして、アギラの姿がセレスの目の前から消え失せた。
その瞬間セレスは悟った。次に彼が現れる時には全てが終わっているだろう。そして自分はそれを認識できない。回避、防御、そんなものは不可能だ――自分が人間である限り。いっそポケットの爆弾を全て爆発させれば、相手に少しくらい傷を負わせることは可能かもしれないが、そうなれば他の者たちもただでは済まないだろう。
それ以上の思考を行うよりも早く、恐るべき死神はセレスの目の前に姿を現した。おかしい、とセレスは思った。彼が現れたのに、自分はそれを認識している――すなわち生きている。
「――何をしている」
中年と呼ぶには渋すぎるが、老人と呼ぶにはまだ早い――そんな声が響く。
セレスが恐る恐る顔を上げると、いつの間に現れたのだろう、目の前に一人の体格の良い白髪の男が、こちらに背を向ける格好で立っている。
そして、アギラの持つ剣の切っ先が、その男の顔に触れるか触れないかという位置で、微動だにせずぴたりと停止している。
「何って、見てわかりませんか? この新米勇者に心得を伝授していたのですよ」
ため息混じりにそう言いながら、アギラは白髪の男に突きつけていた剣を引くと、ゆっくりとそれを鞘に収めた。
セレスがふと気配を感じて周囲を見回すと、右隣にはフードを被った老人が、左隣には黒塗りのナイフを構えた人相の悪い男がそれぞれ立っている。
「――まあ良い。アギラ、お前は先に戻れ」
「まだ肝心の用事が終わっていません。クズのような出来損ないとはいえ、エスパーダ家の後継者候補をこのまま放置しておくわけには――」
「アギラよ」
白髪の老人が一歩前に出る。その全身から放たれる威圧感に、セレスは思わず全身に震えが走るのを感じる。
「お前はエスパーダ家の次期当主かもしれぬが――それ以前にこのレオパルド・グロリアのパーティの一員であることを忘れるな」
「――ちっ」
鋭く舌打ちするとアギラはきびすを返し、こちらに背を向けて去っていく。
だがアルコンとすれ違う瞬間、刺すような声で一言告げた。
「次に会った時は、お前の仲間を全員殺してでも連れて行く。それが嫌なら自分の足で戻って来い。どのみちお前では、あの勇者とは釣り合わない」
アルコンがはっと顔を上げると、そこには既にアギラの姿はなかった。
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