驚愕に凍りついたネーベルは、セレスに声をかけられるまでの実に五分間もの間、その場に立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
フードの人物は、こう告げたのだった。
「……隠密軍が、あなたの目を盗んで動いています。あなた方がこの部隊に割り振られたのもその一環です。どうか気をつけて……」
*
日の出を合図に、ついに戦が始まった。
突撃ラッパが鳴らされ、王国の軍勢が魔王の軍勢に向かって突撃していく。
日常的に繰り返される北の蛮族との戦いと、今回の戦いが異なる点としては大きく二つが挙げられる。一つは、迎え撃つ王国軍の中核が騎士隊ではなく勇者隊であること。もう一つは、攻め入る魔王軍の大半が異形の怪物で占められているということ。
陣容としては、正規軍の騎士が三千、その従者が二万、それ以外の歩兵が三十万。これだけの軍勢をたかだか半日足らずで集めることができるのは、世界中探してもヴァールハイト王国だけだろう。北に蛮族、西に公国、南に異教徒、地下に潜伏する魔族――数々の敵に包囲されながら、建国以来ただの一度も決定的な敗北を喫したことがないのは、王国軍がまさに世界最強の軍隊であるが故である。
一方で、魔王軍の陣容は魔獣が二万、それを率いる魔族が二千。おそらく地上軍の大半がこの戦いに動員されているものと思われる。それに親衛軍も加わっているようだが、その数は地上軍と比べると圧倒的に少なく、せいぜい数十程度であろうと推測される。水上軍と天上軍は今回の戦いには参加していないようだ。隠密軍が姿を見せないのはいつものことだが、おそらく何らかの形で潜んでいるのだろう。
戦場はたちまち混沌に包まれた。人間をはるかに凌駕する生命力を持つ魔獣に次々と突撃され、王国正規軍の指揮系統は一瞬でずたずたにされる。しかしそれは指揮官である魔族を集中的に狙われる魔王軍についても同じで、こうなると俄然強いのが、個々が勇者を頂点とした強固で小規模な指揮系統を持つ勇者隊の迎撃チームである。
中でも軍の中核において最先鋒を務めるレオパルド・グロリアのパーティは、その恐るべき力を遺憾なく発揮し、何人もの魔族と何十体もの魔獣を次々と屠っていった。その戦いぶりが味方の勇者達を勇気付け、さらなる奮戦へと導いていく。
高い再生能力を持つ魔王軍は、本来長期戦において優位を発揮するはずではあるが、今回はさすがに数の差が大きすぎる。戦いが長引けば長引くほど、その物量差は覆しがたいものとなってのしかかってくるだろう。最終的には王国軍の勝利は確実であるように見える――しかし魔王軍が最後まで退かなかった場合、決着がつく頃には互いの負傷者と犠牲者の数は未曾有のものになるだろう。
*
一方その頃――
魔王軍の監視をかいくぐり、セレスたちは早くも要塞の目の前にまで辿り着いていた。
他の隊が潜入に成功したのか、どんな方法で潜入したのか、それはわからない。万一捕まったときのことを考えて、あえて互いに知らせないようにとの通達が出ているためである。
ここまでいとも簡単に近づくことができたのは、何をおいてもリュミのおかげである。彼女の行使する幻術は本来、こういう時のためにあるようなものだ。本人達は自覚できないが、はたから見ると一行はそれぞれ赤・金・銀・亜麻色の毛並みを持つ四匹の猫にしか見えず、何か喋ったとしてもニャーニャーという鳴き声にしか聞こえないはずだ。
「……要塞?」
赤猫――もといセレスはその巨大な物体を見上げて呟く。
建造物と呼ぶべきかどうかすらも怪しい。ぱっと見た感じでは、溶岩が冷えて固まったような岩でできた、何やら馬鹿でかい塊のようにしか見えない。しかしその所々に穴が空いていて、人の出入りができるようになっているようだ。おそらく中は空洞になっているのだろう。大きさに関しては、ちょうどいい比較対象が見つからないが、少なくとも王都に存在するどんな建造物よりも大きいことは確実である。遠くから見れば小さな山のように見えるだろう。
その塊は、何か見えない力に押されるようにして、大地にその巨体を引きずっている。ふと遠くに目をやると、要塞の移動した痕跡が延々と残され、彼方にまで続いている様子がはっきりと見えた。
移動する速度自体は、せいぜい人が歩くのと同じ程度であるが、行く手に岩などがあったとしても、何であろうと押しのけたり砕いたりして進んでいく様はまさに圧巻である。ひょっとしたら地震など起こさずとも、この要塞で走り回るだけで王都を蹂躙できるのではないか――セレスはそんな感想を抱いた。
「ねえネーベル」
セレスは要塞をじっと見つめたまま訊ねる。
「ティエラさんのパーティが魔王に挑んだ時って、やっぱりこの要塞の中で戦ったのかな」
「……そう伺っております。その頃から管理局に勤めていたわけではないので、伝え聞いた話でしかありませんが」
「ってことは、父さんもここに来たのかな」
何気ない感じで呟いたその一言に、ネーベルは何も答えなかった。しかし構わずにセレスは続ける。
「ティエラさんのパーティにいた戦士って、どう考えても父さんのことだよね。レオパルドさんもバレーヌってはっきり言ってたし。それに父さん、あたしが村を出る前の日に言ってたんだ。最も大切なものを、魔王に奪われたって」
そう語りながら、セレスは頭の中に浮かんでいた数々の記憶と思考を統合させていく。
「最も大切なものってのが、ティエラさんのことなのかどうかはわからないけど、少なくともパーティの中の誰かなんじゃないかって――それに父さんの大切な人ってことはもしかして――」
四匹の猫は難なく要塞内部への侵入を果たし、列をなして奥へと進んでいく。
要塞内部は、セレスにとって懐かしい感覚を思い起こさせるものだった。おそらく元々巨大な岩だったものを魔獣か何かに掘らせて作った空間なのだろう。等間隔にランプが並び、ぐねぐねと曲がった通路を薄明るく照らし出す様子など、かつて散々慣れ親しんだあの光景にそっくりだった。
「それにしても、この通路一体どこまで続いてるんだろう。何の情報もなしに突入しちゃったけど、部屋も分かれ道もないし、どこかに隠し扉があるって雰囲気でもないし……何かの魔術で惑わされてるってことはないのかな?」
セレスの質問に、リュミがわずかに首を横に動かす。少なくともリュミの知覚できる範囲では、何らかの魔術的な仕掛けが存在するわけではなさそうだ。
もちろん、一同の会話はリュミの魔術によって迷彩がかけられており、他人が聞いても単に猫が小声でニャーニャー鳴いているようにしか聞こえないだろう。
「でもこのランプ、どこまでもずらーっと並んでるけど一体いくつあるんだろう? これだけあると油とか注ぎ足すの大変じゃないのかな」
そんなことを呟きながら、セレスは壁の窪みに置かれたランプを何気なく手に取る。
「……あれ? この光ってる部分って普通の火じゃないっぽい? 燃えてるって感じがしないし、手を近づけても熱くないし」
「魔族の技術は人間のより百年くらい進んでる、って聞いたことあるけど、あながちデタラメってわけでもないみてーだな」
どうやらそのランプは、底にあるツマミをひねることによって点灯と消灯を切り替えられるらしい。
「へーっ、いいなぁこれ。穴に入る時とかに持ってると便利そう。一個持って帰っても怒られないかな?」
「……こうやって魔王の命を狙って侵入してる時点で、怒られるとかどうとかって次元の話じゃねーと思うんだけどな。大体こんなことしてる場合じゃ――」
「ああごめんごめん、面白かったからつい。でも困ったなぁ、この先もこういう面白いものがいっぱいあったりするのかなぁ」
今まで見たことのないものを見つける度に興味を惹かれていたら、確かにろくに先には進めそうにない。アルコンは大きくため息をつく。
「お前なぁ……本当にやる気あるのか?」
「それは難しい質問だね」
ふと、真顔に戻ったセレスがそう告げる。
「実を言うとね、今回の作戦で魔王を倒そうなんてこれっぽっちも思ってないよ」
アルコンは思わず絶句する。ネーベルまでもが驚きに目を見開く。さすがにリュミは無表情のままに見えたが、実際のところどう思っているのかは誰にもわからない。
「だって、史上最強と言われた伝説の勇者ですら勝てなかったんでしょ? 今のあたしたちがどうやったところで倒せるとは思えないし」
「おい、じゃあ俺達は何のために……?」
「もちろん、儀式を止めるためだよ」
あ、という呟きとともに、アルコンの顔に理解の表情が広がる。
「……要するにあれか、本当に邪魔するだけってことか」
「そういうこと。とにかく魔王の気を散らして儀式を止めたら、あとは全力で戦線離脱。王国軍が有利って話が本当なら、それで魔王軍はとりあえず退却してくれるでしょ? もっとも……」
セレスは笑みを浮かべて告げる。
「できれば、魔太子ってのが何者なのか突き止めたいところだよね。目覚めると世界が滅びるとかかなり眉唾っぽいけど、そんな話が出てくるほど凄い何かがいる、ってのは確かだろうし」
「……おい、どうしたネーベル? 顔色悪いぞ」
アルコンに言われて、セレスもその事実に気付く。
「どうしたの? 気分が悪くなったなら――」
「……あ、いえ、私のことなら心配は無用です。そうそう儀式の妨害という目的を果たしたら即離脱、とても現実的で良い考えだと思いますよ」
そんなことを話しながら、一行はさらに要塞の奥深くへと侵入していく。