そして、ある曲がり角を進んだところで、周囲の光景は劇的な変化を遂げた。
「うっわ、何ここ?」
それは、広大な空間だった。
広間、という呼び名がふさわしいかどうかはわからないが、とにかく広いことだけは事実である。何しろ向こう側の壁がまるで見えないのだ。先程の通路と同じように、壁には一定の間隔でランプが掛けてあるようなのだが、その頼りない光では部屋の中心を照らすには到底足りなかった。
しかし、ぱっと見渡した範囲でもわかることはある。今通ってきた通路以外にも、いくつもの通路がこの広間に通じているようだ。もしかしたら、全ての入口からの通路がここに集まるようになっているのかもしれない。
そして、通路のいくつかには何やら石の看板がかかっており、何かしらの文字が刻まれているようだが、どうやら一般に王国で使われている文字とは似て非なるもののようで、セレスが読んでみてもおぼろげにしか意味がわからない。
よく見ると今通ってきた通路にも同じ看板がかかっており、やはり何事か書かれている。
「十七なんとかの口……って書いてあるのかな?」
「これ、多分古い時代の文字じゃねーのか? こんな感じの文字で書かれた古文書とか見たことあるような気がする」
「……今からおよそ四百年ほど前、王都を中心に使われていた文字です。話し言葉は当時と今とでそれほど変わっていませんが、文字や細かい文法などは大きく変わってしまいました」
「へーっ、ネーベル詳しいんだね」
セレスの賛辞にも、しかしネーベルは浮かない顔で続ける。
「これは『十七番出口』と書かれています。今我々が通ってきた入口のことですね」
「なるほど。じゃああっちは?」
そう言ってセレスが指差した先には、何やら矢印のような記号と、それに続く文字という組み合わせが何行にも渡って記された石版があった。
「待って、試しに当ててみる。えっと……左に『軍の待つ部屋』『会って話し合う部屋』、右に『食事の部屋』『大きく広いもの』、それから……『浄化する部屋』?」
「……驚きました、直訳としてはほとんど正解です。いかに現代の文字の原形になっているとはいえ、それだけの情報でここまで推測してしまうとは。ちなみに『浄化する部屋』というのは一種の婉曲表現で……あえて現代風に言うならば、お手洗い、といったところでしょうか」
「えっ……魔族もトイレとか行くんだ?」
言われてみれば当然という気もするが、思わぬ新事実がセレスにとっては妙に感慨深かった。
「それで、あっちに行くと……下に行くステップ? 階段のこと? があって、その先には……『強く問いただす部屋』『入れたままにしておく部屋』『切る部屋』……えっと、これは何の婉曲表現?」
「……ええと、婉曲というよりむしろ、直接過ぎる表現というか……」
「うーん、さすが魔族恐るべし。で、逆方向に上に行く階段があって、そっちに行くと『とても大きな人の部屋』『最も大きな人の部屋』『お出迎えの部屋』『式典の広いもの』……式典ってひょっとして!」
「……儀式のことだろうな。あと『最も大きな人』ってのはきっと魔王のことだろ。もっとも、この板に書かれてる内容が正しければの話だが。罠って可能性もあるぜ?」
「……いえ、それはないでしょう」
アルコンの疑問にそう答えたのはネーベルだった。
「古文だの歴史だのを研究する学者でもない限り、魔族の使う字をまともに読める人間などまず存在しません。読めない罠など仕掛ける意味もないでしょう」
「……それもそうだな」
「とにかく、あの石版の内容を信じるなら階段を上に行けばいいってことになるけど、さすがに正面から乗り込むのは難しいよね。見張りだっているだろうし、いくら猫に見えるとは言ってもさすがにそんなところに潜り込もうとすればつまみ出されるだろうし……リュミ、何かいい方法は」
異変はその瞬間に起こった。
周囲の灯りが一斉に消えた――しかしそれは錯覚で、セレスは自分の周囲が黒い霧で包まれていることにすぐに気付く。
すぐ近くにいたはずの三人の姿が見当たらない。それどころか声も気配も感じられない。しかし気配を探っているうちに、何か異質なまったく別の気配を感じ、そちらに注意を向ける。
わずかに空気を切る音――セレスはすかさず反応して身をかがめると、頭のすぐ上を何やら刃物のようなものが通り過ぎていくのを感じた。
しかし、飛び道具を使ってきたことで、逆に相手の場所がはっきりと推測できるようになった。迷わずセレスは飛び込んだ。
何やら霧の向こうで気配が動く。もしかして再び何かを仕掛けてくるつもりかもしれない。ならば先手必勝とばかりに、セレスは見えない相手に掴みかかる。
指先が何かに触れる。布のような感触に、それが相手の服だろうと判断し、そのまま強引に引き寄せると、思い切り投げ飛ばした。服の主は宙を舞い、全身を岩でできた硬い床に叩きつけられる。
「がはっ……!」
呼吸とともに声が漏れ、それと同時に周囲の黒い霧がゆっくりと薄らいでいく。
そして、その服の主はゆっくりと姿を現す。
どうということはない、姿形はただの人間の男にしか見えなかった。しかしよく見ると肌の色が少しばかり青みがかっていて、そしてうっすらと妙な模様が浮かび上がっている。
「なんて奴だ……あと一瞬発動が遅れたらやばかったな」
おそらく魔族と思われる男はそう告げると、セレスの腕を振り払うようにして立ち上がった。
「しかし、殺せって命令じゃなくて助かった。こんな奴と戦うなんて冗談じゃない」
そう告げた男の体が、突然妙な色の光に包まれる。
何が起こるのかとセレスが身構えるが、次の瞬間には光は消え失せ、そして同時に男の姿も消えていた。
「……一体なんだったんだろう?」
だが、その疑問は周囲を見回した瞬間、一瞬にして氷解した。
「えっ、ここ、どこ?」
それまでいた広間とは何もかもが違う。
床や壁はごつごつとした岩ではなく、磨かれた藍色の石のようなものでできていた。天井はどこまでも高く、まるで夜の闇につながっているような錯覚にとらわれる。
部屋には極端に灯りが少なく、周囲の様子はほとんど読み取れない。しかしその分、セレスの目の前に真っ直ぐに伸びる絨毯の通路と、それを両脇から挟む形で延々と並ぶ燭台の灯りが、闇の中にくっきりと浮かび上がっている。
「そっか、さっきの奴が受けた命令って……」
おそらく、セレスをここに連れてくることだったに違いない。しかも他の三人と一緒にではなくあくまでセレス一人を、である。
三人の安否は気になるが、しかし今はそれ以上に自分の身を案じなければならない。背後には大きな鉄の扉があるが、それは固く閉ざされていて、つるはしでも爆弾でもびくともしそうにない。どうやら先に進むしかないようだ。おそらく自分を殺すための何らかの罠が待っているのだろうが、だからといってここでずっと立ち止まっているわけにもいかない。
セレスは慎重に、絨毯の上を一歩、また一歩と踏み出していく。
Prev<< Page.28 >>Next