「やあ、はじめまして」
 黒い霧が晴れた後――見覚えのない通路で、アルコンの前に立つ男が微笑と共に語りかけてきた。
 ただ、それだけだった。
 それだけで、なぜかアルコンの体は動かなくなる。何かおかしな術でもかけられたのかとアルコンは焦るが、いくら頑張っても指先一つ動かない。呼吸すらも忘れていた。
「僕の名はヘルツ。まあそう固くならないで、気楽にしてくれていいよ。正直なところ、僕には君をどうこうしようって考えはない」
 そう言われて初めて、動かなくなっていたのは体ではなく、心の方だったことにアルコンは気付く。止まっていた息を一気に吐き出し、再び吸い込んでから、今にも裏返りそうな声で問い返す。
「どうもしない、だと……?」
 目の前の男は明らかにおかしい。魔族であることは見ればわかる――肉体的には人間とほぼ見分けがつかないが、服装が魔王軍特有のものだからだ。魔族以外の普通の人間はまずこんなものは着ない。そんなものを着て外を出歩けば、勇者に見つかった瞬間、問答無用で斬り殺されても文句は言えないからだ。
 この通路自体には見覚えがないものの、少なくとも魔王軍の要塞内部であることは間違いない。そんな場所で魔王軍の魔族と出会って、しかし相手は何もする気がない、というのはどうにも解せない話だ。
「少なくとも、君がこの先に進もうとしない限りは、ね。外に出たいというのなら送り届けてあげてもいい」
 その言葉に嘘はないだろう、と思う。
 アルコンの五感全てが全力で訴えかけてくる。ヘルツと名乗るこの男は、見た目通りの優男ではない。次元というか、何もかもが今までの常識とは異なっている。アルコンが今まで出会った人間の中で、最強と言えば間違いなく兄のアギラだろうが……そのアギラがたとえ十人束になったところで、目の前の相手には難なくあしらわれそうな、そんな予感すら覚える。
 つまり、その気になれば相手はいつでも自分を殺せるのだ。実は既にそれは実行されていて、自分が死んでいることに気付いていないだけかもしれないが、もしそうでないのならば殺す気がないというのは嘘ではないだろう。
 そう思った瞬間、それまで考えていた疑問が一気に口からあふれ出してきた。
「セレス達はどこに行った? そもそもお前は何者なんだ? どうして侵入者の俺を殺そうとしない? なぜ魔王軍は王都を滅ぼそうとするんだ?」
「うーん、そんなにいっぺんに言われても僕には何がなにやら」
 とぼけた調子でヘルツは答える。
「まあ時間はたっぷりあるからね。いいよ、最初の質問から順番に答えてあげる」
 そう言いながら立つヘルツの腰には一振りの剣が下げられているが、それを抜き放とうとする気配は微塵も感じられない。それどころか彼はアルコンに対して身構えることすらなく、重心すら適当に置いた姿勢で気軽に突っ立っている。その背後には重厚そうな扉がそびえており、立っている位置から察するとその扉を守っているようにも見えるが、そういった気概がまるで感じられないのだ。
「みんなはそれぞれ別の場所に飛ばされてるよ。君は本来、隠密軍の誰かが相手をするはずだったんだけど、無理言って僕が代わってもらったんだ。僕が君に会ってみたかったっていうのもあるし、君が殺されちゃったら困るからね。君に勇者の力が備わっていればそこらの奴には負けないだろうが、残念ながらそうじゃない」
 実によく喋る奴である。感心したような呆れたような、アルコンは一瞬そんな気分になったが、すぐに気を引き締める。いかに目の前の男に敵意らしき敵意がないとはいえ、ここは敵の本拠地の真っ只中なのである。
「リュミエールは隠密軍の将軍が相手にしているよ。普通に考えればこっちの圧勝だろうけど、彼女の中の人が出てきたらどうだろうね? どちらにしろそれなりに時間は稼げるだろうから、僕としてはどうでもいいんだけどね。ああ、どっちかといえばリュミエールに勝って欲しいなぁ、だって僕あいつ嫌いなんだもん」
 あいつ、というのは隠密軍の将軍のことだろうか。物問いたげなアルコンの視線に気付き、ヘルツは軽く咳払いをする。
「おほん、僕がこんなこと言ってたなんてバラさないでね。一応仲間ってことになってるんだから。ちなみにセレスティア様は魔王陛下が直々にお相手なさっているはずだ」
「……何だとっ!」
 アルコンの両目が驚愕に見開かれる。ヘルツの口ぶりからすると、魔王軍はこちらを分断するにあたって、相手を選べる状況にあったと思われる。だとするとなぜ、よりにもよってセレスと魔王を結び付けたのか。いかに魔王が恐ろしい存在であったとしても、勇者であるセレスを相手にすれば万が一ということもある――それ以前に魔王が『相手をしている』時点で既に儀式は失敗だろう。
「次に二つ目の質問。僕が何者か、ってことだったよね」
 先程の答えにショックを受けていたアルコンは、ヘルツがネーベルについての回答を飛ばしたことに気付いていなかった。
「まあこれはどうでもいい質問だね。さっきも名乗ったが僕の名前はヘルツ。一応親衛軍の元帥でもある。さて三つ目の質問だが――」
 こんな優男が、地上生物の中で最強の戦闘力を誇ると言われる親衛軍元帥だという。その内容は十分に驚くに値するはずだったが、不思議とアルコンは何とも思わなかった。どちらかというと、合点がいくといった感すらある。
「どうして君を殺そうとしないか? 理由は三つある。一つは、そもそも君を殺す必要性が薄い。二つ目は、君のことは気に入っているから殺すのは気が進まない。そして三つ目は――これが一番重要なんだけど、もし君を間違って殺してしまったら、僕は間違いなく殺されちゃうからね。四百年くらい生きていてもやっぱり命は惜しい」
 最初の二つはともかく、最後の意味がわからない。殺されるというのは誰にだろうか。魔王だとしたらこんな言い方はせず、単に『殺さないよう命じられている』で済むはずだし、そもそも魔王にアルコンを殺したくない理由などあるはずがない。
「それから最後の質問――なぜ魔王軍が王都を襲うか、だったね」
 アルコンの思考は混乱を極めていたが、なんとか聞き漏らすまいと意識をヘルツに向ける。
「この際だからバラしちゃうとね、実は僕らは、王都を滅ぼす気なんてこれっぽっちもないんだ」

 何とか立て直そうとしていたアルコンの思考が、一瞬にして止まる。
「大体そんなことして僕らに何の得があるのさ? 確かに僕らの天敵である勇者は減るかもしれないけど、どっちかというと僕らの被害の方が大きい。そもそも僕らは王都の市民に恨みなんてない。魔王陛下は王様に恨みがあるらしいけど、王都を滅ぼしたくらいで死ぬような王様なら苦労はしないよ。まあ正直僕にはどっちでもいい話なんだけどね」
「な……だったら、何の……」
「最初の段階はもうクリアしてるんだ。だからこの要塞はもう進んでいないし、軍も退却を始めてる。戦力で負けてるんだから戦いが長引いても意味ないしね。あとは陛下がうまくやってくれるかどうか。僕の役目はただ一つ――誰にも邪魔させないこと。それだけなんだ」
 彼の言葉に、アルコンは背筋が凍えるのを感じた。魔王が何を『うまくやる』のかはわからないが――彼の言葉が事実なら、魔王は今、セレスと相対しているはずなのだ。
「セレスに……あいつに何をするつもりなんだ?」
「おっと、そう怖い顔で睨まないでくれよ。他の奴らはどうか知らないけど、僕はこれから君とはよろしくやって行きたいと思ってるんだ。しかし君もわかりやすいね。僕と最初に会ったときはカチンコチンで息すら止まってたのに……」
 ヘルツが最後まで言い終わらないうちに、アルコンは背中の剣を抜き放っていた。
「あいつに、何をするつもりなんだ?」
「何もしないよ。いや厳密には殴りあったりするわけだから何もしないわけじゃないけどね。具体的に言うとね……そうだな、どうやって説明したらいいかなぁ」
 ヘルツは考え込むようにしながら、アルコンに詳細を語り始めた。

「ま、そんな感じ。説明は以上だ。僕としては本人が決めたことだから尊重してあげたいんだけど、たぶんネーベル君あたりが知ったら絶対に止めようとするだろうなぁ。変に動くと勘ぐられるから放置しろって言われてるけど、本当にそれでいいんだろうか」
「……行かせてくれ」
 アルコンの声に、もはや怯えやためらいというものはなかった。
 ヘルツはそんなアルコンの様子に満足そうに頷くと――腰に下げた細身の剣を、無造作に抜き放つ。
「僕の役目は、君を通さないことなんだけどね」
 気負った風でもなく、自然体のままで軽く剣の切っ先をアルコンに向ける。それだけで、ヘルツから全ての隙が消え失せた。
「どうしても、って言うなら……僕を少しでも傷つけることができたら、ここを通してあげよう。そうすれば僕としても言い訳が立つからね。でも、手は抜かないよ?」


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