リュミエールは動かない。
 辺りが暗闇に包まれた時、どこからともなく飛んできたナイフに腹を貫かれたのだ。何本も飛んできたうちの一本で、そもそもリュミを狙って投げられたものですらなかったのだが、狙いが外れて運悪く彼女に刺さってしまったのである。
 内臓の損傷は大したことはなかったが、かなりの出血がある。無理にナイフを抜こうとすれば大量の血が噴き出すだろう。かと言って、刺さったままの状態でやたらと動き回るのは自殺行為だ。
 心臓の脈動と共に訪れる激痛を感じながらも、リュミは表情一つ変えない――だがその顔色はいつも以上に青白くなっていた。
「おやおや……こいつは手間が省けたというものですな」
 闇が晴れると同時に、突然かけられた声にリュミは顔を動かさず、虚ろな視線だけで反応する。
「何もしなくても死にそうな感じですが、一応とどめを刺しておかないと仕事したことになりませんからねぇ」
 そこには、明らかに人間と異なる何かが、何の支えも無しに宙に浮いていた。
 背中にはコウモリの羽根のようなものを生やしているが、羽ばたいてはいない。しわがれて奇妙にねじくれた毛深い手足、黒衣に包まれたやたらと細い胴、そして鋭い牙を生やした口。顔だけは人間に近いが、目はぎょろりと見開かれ、満面の笑みを浮かべたその表情は大半の人間の目には『気持ち悪い』ものに映るだろう。
 魔族の大半は、その力を発揮する時に体色が変わることはあれど、姿形そのものは人間と見分けが付かないものである。そういった意味では目の前の魔族は、極めて珍しい存在と言えた。
「それでは、ごきげんよう」
 異形はそう告げると、開いた右手をリュミに向かって構えた。その先小さな光が灯り、それは徐々に膨らみ燃え盛る火球へと姿を変えていく。
 それがリュミに向かって一直線に放たれる――
 だが火球はリュミの目の前で突如として、まるで何かに弾かれたかのように運動の向きを逆転させ、それを放った張本人である異形に向かって飛んで行く。いきなりの出来事に反応できず、火球は異形の胴体にまともに命中した。
「ぐぎゃぁぁぁっ!」
 醜い叫び声を上げながら、空中でバランスを崩した異形が床面へと落ちていく。
「……この状態で出てくるのは、思ったより消耗が激しいですね。早めに片をつける必要がありそうです」
 そう呟くリュミの表情は完全に消え失せ、瞳は真紅に染まっている――彼女はもはやリュミエールではなくオプスキュリテと呼ぶべき存在と化していた。
 一方、自らの放った火球に焼かれた異形は、かろうじて完全に落下することを免れ、床面すれすれから再び宙へと舞い上がった。
「ちっ、私としたことが油断しましたね。しかし我々の情報力を甘く見ないことです。あなたの人格に関することなど既に調査済み……その情報から察するに、あなたが今言った通り、その状態で出てくるのはちょっと骨なんじゃありませんか? 精神が肉体に影響を与えるのと同じくらい――もしくはそれ以上に、肉体は精神に影響を与えるものですからねぇ」
 ますます異形のどぎつい笑みが深くなる。
 オプスキュリテは、先ほど火球が命中した異形の胴体に目を向ける。そこからは既に炭化した肉が剥がれ落ち、内側から新たな肉が再生している様子が窺えた。
「まあ良いでしょう、この隠密軍将軍――もうすぐ元帥になるこの私が直々にお相手して差し上げぬおっ」
 いきなり叫びつつ飛び上がった異形の下半身から、いつの間にか切断されていた両脚がぼとりと床に落ちる。
「人が話している最中になんて失礼なっ! まったく、よいしょ、あの小娘のパーティの一員だけあって、よいしょ、野蛮なことこの上ないですねぇ」
 まるでズボンでも脱ぐかのように、異形は切り口から新しい脚を再生させた。
「……」
「それにしても、かつては人間の魔術師のみならず魔族の間ですら話題になったあの『一人三賢者』ともあろう者が、堕ちたものですねぇ……あんな育ちの悪い小娘のお守りとは」
 べらべらと喋る異形の将軍に、次々とオプスキュリテの魔術が襲い掛かる。しかし異形は縦横無尽に飛び回り、紙一重で直撃を免れ続けていた。
「その点、我々はこれ以上堕ちようがないですからねぇ、気楽なものですよ。まあ私にはそんなことはどうでもいいことなんですがね。相手が誰であろうと私は私のために利用するのみ――もっともあんなろくに知恵もない小娘じゃ、皆にいいように利用され尽くすのが関の山でしょうがねぇ?」
 それでもオプスキュリテは無表情に魔術を発動させ続ける。もっとも連発による影響か、それとも腹の傷が響いているのか、その切れ味は徐々に落ちているようにも見える。
「ほーれほれほれ、こちらですよぉ? もしかしてもう疲れちゃいましたかぁ? ってうひゃぁ」
 わずかに避け損ねた魔術が異形の腕をかすめ、その部分から一気に石化が進んでいく。彼は慌てて自分の腕を引き千切ると、その場に放り投げた。腕は宙を舞う間に芯まで完全に石となり、床に落ちた瞬間に粉々に砕け散った。
「あぁぶない危ない。全身が石になってしまえば、いくら私のような高位の魔族でも復活に時間がかかりますからねぇ……まあ、長くて数分といったところでしょうが」
 なおも喋り続ける異形に、オプスキュリテは続けざまに魔術を放とうとする――だがその瞬間、彼女の膝から力が抜け、不意に姿勢を崩して床に膝を落としてしまった。
「おやぁ? あと数分なのはあなたの命の方でしたかねぇ? しかしあまり追い詰めてしまって、最後の足掻きで痛い目に遭うのも面白くない。ここは確実な方法を採らせて頂きますよ――ちょうどいいところに現れたみたいですからねぇ」
 そう告げると、異形はオプスキュリテの背後の空間に目を向けた。
「魔術師を無力化するには、その力の根源たる『心』を折るのが一番の近道ですからねぇ……そうでしょう、ネーベル君?」
 何気なく告げられたその名に、思わずオプスキュリテは振り返った。

「ネーベル君はこう見えて、隠密軍に所属する私の部下でしてねぇ。元々王宮に役人の振りをして潜り込ませていたのですが、あの小娘が勇者に任命されてからはその動きを逐一監視して、報告する役目を負わせていたのですよ」
 そんな異形の言葉が耳に入っているのかいないのか、突如として現れたネーベルとオプスキュリテは、互いに見つめ合ったまま微動だにしない。
「彼の報告では、あの小娘は全く疑う素振りすら見せずに、完全に信頼しきっていたようですしねぇ。馬鹿ですねぇ阿呆ですねぇ間抜けですねぇ。まあそんな奴だからこそ利用のし甲斐もあるというものですが……」
「……それで、私は何をすればいいんです?」
 緊迫した空気の中、気楽とも思えるような口調でネーベルは問いかけた。
「まずは動きを封じるのです! その後私が華麗に――」
「かしこまりました」
 ネーベルの皮膚に妙な模様が浮かぶ。魔族が自らの生命力を魔力に転換して、いわゆる禁呪の一種を発動させる際に現れるものだ。原理さえ理解すれば人間でも真似できなくはないのだが、発動させる毎に年単位で寿命を縮めることになるため現実的ではない――無限の寿命を持つ魔族ならではの技、すなわち魔族の証と言っても良いだろう。
「しかし動きを封じても、力そのものを抑え込めるわけではありませんから、その点はお気をつけ下さい」
 そう言うと同時に、ネーベルは魔術を発動した。
 不可視の力が辺りの空間を包み、あらゆる移動が封じられる高等禁呪の一種である。極めて強力極まりない魔術ではあるのだが、空間に作用する魔術であるため効果が限定されず、使用者本人すらその影響からは逃れられない……しかも彼の言う通り相手の力まで封じることはできないので、状況によっては一方的に反撃を受ける羽目になる。おまけに効果時間も短い。強力ではあるが、実戦においては実に使えない魔術でもあるのだ。
 当然のことながら、その効果は最も近くにいるオプスキュリテにも――そればかりではなく、少し離れた所にいる異形の将軍にまでも及んでいた。
「……ネーベル君、何をやっているのですか? 私の動きまで止めろと言った覚えはありませんよ?」
「申し訳ございません。動きを止める方法と言いますと、わたくし、この方法以外に持ち合わせておりませんもので。普段から申し上げている通り、戦闘は苦手なのです」
「そんなことはどうでもいいです! 早く私だけでも動けるようにするのです!」
「かしこまりました」
 ネーベルが力の効果範囲を狭めると、異形はようやく身動きを取れるようになった。相変わらずネーベル自身とオプスキュリテは、不可視の力に包まれてほとんど身動きが取れないままだ。
「まったく使えない奴ですねぇ……まあいいです、これからゆっくりととどめを……ん? 何でしょうこの透明な膜みたいなものは?」
 異形はふと首を傾げる。いつの間にか周囲に出現していたシャボン玉のような膜が、彼を取り囲むように球状の空間を形作っていたのだ。
 何気なく彼が足元を見ると、そこには何やら透明な液体のようなものが溜まっている。
「ネーベル君、一体これは何なのですか?」
「おそらく、そこにいる彼女が放った秘術の一種でしょうね。外側からなら簡単に壊すことができますが、内側からの攻撃は全て吸収され、そのエネルギーは膜の強化に使われるはずです。もっとも持続時間はそれほど長くないため、余計な力を与えなければ数分で消えてなくなるでしょう」
 まるで他人事のように解説するネーベルに対し、異形の将軍は怒りをあらわにする。
「そんな呑気なことを言っていないで、早く私を助け出しなさい!」
「うーん、それは困りましたねぇ。わたくしは今、あなたの命令で彼女の動きを封じているところなのです。実はわたくしも動けないのですよ」
 そんなやり取りをしている間に、シャボン玉の底に溜まっていた液体が徐々に量を増し、異形の将軍の足元に迫ってくる。
「なるほど、その液体が肝なのですね。触れたもの全てを溶かし、エネルギーとして膜に吸収させることで維持強化を図り、相手を死ぬまで閉じ込めておくという……考えましたね」
「な、何を言っているのかねネーベル君ぐぎゃぁぁぁぁぁっ!」
 ついに液体に触れてしまった異形の肉体が、煙を上げながら溶けていく。しかし肉体は溶けるそばから再生し、しかし再生するそばから溶けていく。
「ですが将軍は高位の魔族……いくら溶かしたところで無限に再生を続けることでしょう。この方法で殺すことは不可能では?」
 そんなネーベルの疑問に、オプスキュリテはようやく重い口を、しかし淡々と開いた。
「肉体が無限に再生を続けるのであれば、無限に溶かし続けて無限に力を吸収し、この魔術が永遠に続くだけのことです」
 その言葉を聞いた異形の顔色が、傍目に見ても分かるほどに一気に青ざめる。
 見かねたネーベルが、恐る恐るといった調子でオプスキュリテに訊ねる。
「単に封じるだけならここまで大掛かりで残酷な方法を採らなくても……」
「私の意志ではありません」
 オプスキュリテはさらりと告げる。
「では、誰の……?」
「無論リュミエールです。ろくに知りもしないくせにセレスティアを侮辱されたと、彼女はひどく立腹しています。リュミエールの影である私は、最終的に彼女の意志に逆らうことはできません」
「その割にはずいぶんと乗り気のように見えますが……いえ何でもありません」
 そんなやり取りを見ていた異形の将軍は、ここに来てようやく事態を悟ったのか、肉体を溶かされ続けながらも憤怒の形相で叫んだ。
「ネーベル! 貴様、裏切るつもりか――!」
「……わたくしから見れば裏切り者は、将軍閣下、あなたの方です。陛下のご意向を知った上で、それに喜んで協力するなど……大方あなたのことだ、その方が後々やりやすくなるとでも考えていたのでしょう」
「……!」
「それと、一つだけ訂正させて頂きます。わたくしは確かに隠密軍に所属していますが、あなたの部下になどなった覚えはありません。わたくしの主は常に陛下のみ――ですが最近思うのですよ。むしろセレスティア様にお仕えしていた方が、わたくしとしては幸福だったのかもしれませんね」
「貴様、それでもぐがあぁぁぁ!」
「……耳障りな不快音がしますね。何とかならないものでしょうか?」
 ネーベルの呟きに、オプスキュリテは頷くと黙って秘術を発動させた。すると異形の将軍の声のみならず、姿形までもがシャボン玉もろとも消え失せる。
「なるほど、透明化の魔術を付加したのですか」
「透明化と静音化と空間隠蔽と対探知結界です。しかしこれでも完璧ではありません。外部かの探知はほぼ不可能ですが、たまたま誰かがこの場所で隠蔽解除を試み、透明化も解除した上で物理的な衝撃を膜に加えれば、彼を救出できる可能性はゼロではありません」
 それは何の変哲もない石に偽装した宝石を、広大な大地のどこかに穴を掘って地中深く埋め、その痕跡を完全に消したと言っているようなものだ。しかも埋めた場所はもちろん、埋めたこと自体すら、埋めた本人達を除いて誰も知らない。

 ネーベルがここに来てようやく魔術を解除すると、二人は再び自由に身動きが取れるようになった。しかし同時に、オプスキュリテの傷口からも再び血が流れ始める。
 彼女は黙ってその場に座り込むと、秘術を発動させて自らの傷を塞ぎにかかった。
「……あまり、驚いていないようですね?」
「最初に会った時から、あなたが魔族であることには気付いていましたから」
 再び沈黙が流れる。それに耐え切れなくなったのか、再びネーベルが口を開く。
「なぜ、わたくしを殺さなかった――いや、殺さないのですか?」
「リュミエールはあなたのことを仲間だと思っています。セレスティアに対するほど絶大な信頼というわけではありませんが、それでもあなたにもしものことがあればショックを受ける程度ではあります」
「……それはどうも」
「さらに言えば、私とあなたが争ったとして、一番大きなショックを受けるのはセレスティアです。これらのことから総合して考えると、あなたが魔王軍と通じているという点を差し引いても、あなたと対立するメリットは相対的に低いと判断しました」
 その言葉に、ネーベルははっとした表情になった。
「しまった、こんなことをしている場合ではありません。このままでは大変なことになる――陛下を何としてもお止めしなければ!」
「……なるほど、あなたのその慌てぶりと、そして先程の将軍の言葉から、魔王の企みについて方法はともかく結果については大体の予想がつきました。それが正しければ、私とあなたの利害は一致します。つまり何としても止めなければなりません。しかし」
 オプスキュリテは一旦言葉を止める。表情だけを見ていてもわからないが、その呼吸音はいかにも苦しそうだ。
「私はしばらく動けそうにありません……無理に動くと命に関わります。傷を塞いだら後を追いますから、あなたは先に行って何としても魔王の企みを阻止して下さい」
「……かしこまりました」
 ネーベルは意を決して立ち上がると、通路の奥、儀式の間がある方へと全速力で駆けていった。
 その後姿を見送り、オプスキュリテが呟く。
「何としても阻止しなくてはなりません。さもなくば、リュミエールの精神は今度こそ確実に崩壊するでしょう……」


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