そんな混乱の隙を掻い潜るようにして、二人の少女は北東に向かって進んでいた。
歩き始めて今日で三日目。確たる目的地があるわけではないが、とにかく背中に背負った少女を何とかしなければならなかった。
こうなってしまったのは自分のせいだ。しかしこのまま自分が連れ歩けば彼女を危険に晒すことになるだろう。以前と違って、もはや彼女には自らを守る力はない。生まれたての赤ん坊より無力な存在だ。
そんなことを、少女を背負った少女――とりあえず人間の姿に戻ったセレスは考えていた。
あくまで、とりあえず、なのである。表面上は何の兆候も見えていないが、実はセレスは今でも必死で内なる衝動を抑えているのだ。少しでも気を抜けば、再びあの力が肉体の奥底から沸き起こってくるだろう。あとは本能の赴くままに力を解き放てば、この地上に破壊できぬものなど何一つとして存在しないはずだ。
途方に暮れながら、セレスは背中の少女の様子を窺う。それは見知った、というより既に見慣れた顔だった。相変わらずの無表情――と言いたいところだが、それは今までに見たことのある二種類の無表情のどちらとも異なる種類のものだった。
正体の定まらない瞳で宙を見つめ、時折それをわずかに揺れ動かすことによってのみ感情を表現していたリュミエール。一方で感情を完全に廃し、鉄壁の理性と一途な意志をもって存在していたオプスキュリテ。今の少女はそのどちらでもなかった。
その瞳には焦点どころかそもそも光が届いているようにすら思えず、顔面からは全ての力が抜け、口をだらしなく開けている。それどころか全身から力が抜けているため、まるで同じ重さの砂袋を担いでいるようだ。これを長時間背負って歩くのは相当な重労働である。
声をかけても反応はないが、眠っているのとも意識を失っているのとも違う。口に水を含ませてやれば飲み込むし、排泄すらも反射的に行うためここに来るまでに三度ほど川で洗濯をする羽目になった。
「どうしよう……もうお金も残ってないし……」
今のセレスの所持品は、身の回りの荷物の入った小さなバックパックと、ポケットに入った小銭と爆弾くらいのものである。大きな荷物は宿屋に留めた馬車の中に置きっぱなしだったし、勇者として稼いだ大金はほとんど銀行に預けてある。どちらも王都に戻らなければ取り戻せないが、今の状況でそれは自殺行為に等しい。
そして、愛用のつるはしは魔王との戦いの時にどこかに放り投げたまま、今でも見つかっていない。もちろんリュミを背負ったままあんなものを持ち歩くというのも無茶な話ではあるが、今ここで野盗やら魔獣やらに襲われたら素手で立ち向かうしかない。
そんなことを考えながら、セレスはふと視線を前方に向けた。
いつの間にか山を登ってきてしまったらしい。何やら毒々しい青緑色の植物が辺りに生えており、周囲には動物はおろか鳥の一羽すら見つからない。静寂の中、風が木々を揺らす音だけが響き渡る。
セレスは思わず目を見開いた。一体どういう偶然か、そもそもここに来るための道程すら知らなかったというのに、なぜかセレスは辿り着いていた。帰巣本能のなせる業か、それとも頼れる場所など他にないことを無意識のうちに悟っていたからなのか。
そこは――かつて毎日のように通っていた、デルニエの村と鉱山とをつなぐ細道だった。
あの日、村人のほぼ全員に見送られながら旅立ってから、まだ三週間しか経っていない。
まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった――そう思った時、セレスの目からは気づかぬうちに涙があふれていた。
正直、こんな状態で帰りたくはなかった。勇者を夢見て飛び出したものの、実際に勇者として活躍したのは四日間。魔王を倒すという、ある意味ではあのティエラ・レジェンダをも凌ぐ究極の功績を挙げたとはいえ、セレスにしてみればあれは自殺の手伝いをしたようなものである――しかも実の母親の、である。さらに言えば、今や王国に追われる身となった自分が村に戻ることで、村に何らかの迷惑がかかる可能性もある。
しかし背に腹はかえられない。最も優先すべきはリュミの身の安全だ。今のリュミは赤ん坊のようなものであり、そういった意味ではデルニエの村というのは最も信頼に値する環境である。何しろかつてここの村人たちは一人の赤ん坊を拾い、皆で力を合わせて見事に育て上げたという実績があるのだから。
そう決意して、村に向かって足を進めようとした瞬間だった。
「おい! あそこにセレスがいるぞ!」
村人の誰かが大声で叫んだ。聞き覚えのある声ではあるが、その声がここまで切迫した声で叫ぶのを聞くのは初めてだ――などと思っていると、叫びを聞きつけた村人たちが、何人もこちらに向かって駆けつけてくる。
その数十人ほど――彼らが現れたとき、セレスは信じられないものを目にした。
全員が、その手に武器を握っているのである。
このような光景は、かつて一度だけ目にしたことがある。セレスが幼い頃、ステージVの魔獣が村を襲い、村人全員で迎え撃った――村人の半分近くが命を落としたあの日の光景を、セレスは脳裏から払うように頭を振った。
そうこうしているうちに、奥からさらに何人かの村人が出てきた。彼らも同じように武器を構えていたが、一人だけ武器でなく別の何かを持った老人がいた。
それは、セレスがある意味第二の父親のように慕ってきた、実質的な村のリーダーであるロンだった。村人たちが遠巻きに見守る中、ロンはただ一人、大きな袋を抱えてセレスの前に歩み出てきた。そして開口一番、こう告げる。
「何をしに戻ってきた?」
それはどう聞いても、間違っても歓迎されていない口調だった。一体、事情がどのように伝わっているかはわからないが、少なくとも自分が村人たちを敵に回してしまったことは確実なようだ。そんなセレスの考えを悟ったのか、ロンは簡潔に伝えてくる。
「お前さんが世界を滅ぼす存在として、王国に追われているということはわかっておる。それが事実かどうかといったことは、この際問題ではないのじゃ」
「……それは」
ようやくセレスはかすれた声を発した。
「あたしが村に戻ると、みんなに迷惑がかかるってこと?」
「察しがいいのう。その通り、お前さんを匿えばわしらも同罪になる。王国を敵に回せば、こんな村など一瞬で消し飛ぶわい」
予想して然るべき答えではあった。確かに彼の言う通りであり、反論の余地など微塵も見つからなかった。しかし、だからといってここで引き下がるわけにはいかない。
「お願い! リュミだけでもいいから預かって! あたしが連れてたらこの子は――」
懇願するように告げるセレスに向かって、ロンは静かに訊ねる。
「その娘さんは、お前さんの仲間か?」
ロンの問いに、セレスが一瞬迷ってから頷くと、ロンは静かに首を横に振った。
「ならばここに置くことはできぬ。どちらにしても同罪とみなされかねんからの」
膝から力が抜けるのを感じた。しかしここで倒れてしまうわけにはいかない。必死で踏ん張るセレスに、ロンはゆっくりと近づいて、持っている袋を差し出す。
「村を出る時……確かわしはあんたに言ったな。お前さんの金はまだまだ残っているからいつでも取りに戻って来い、と」
セレスは恐る恐る袋を受け取り、袋の口を開けてみる。中には、おそらく金貨よりも高い価値を持つと思われる宝石が、それもかなりの数詰まっていた。
「それで全部じゃ。これでもう、この村にも用はなかろう。早々に立ち去るがええ……」
「待って!」
セレスは思わず叫んでいた。
「父さんに会わせて! 最後に一度だけでも――」
「残念ながら合わせるわけにはいかんのう。お前さんの親父殿は地下に監禁させてもらっとる。事情が事情なのでな……心配せずとも命までは取ったりせぬよ。あくまで用心のためじゃ。さもなくばあやつのことじゃ、放っておけばお前さんを助けるために村を飛び出して勇者狩りでも始めかねんわい」
「……そう。じゃあ父さんに一言だけ伝えて。……元気でね、って」
セレスの最後の願いに、ロンは初めて頷いた。
それ以上、何かを言うことはできなかった。セレスはリュミを背負ったまま、村と村人たちに背を向けると、元来た道をゆっくりと戻っていった。
*
さらに丸一日が過ぎた。
夜通し歩き続けて、セレスは見知らぬ村の外れにある小さな廃屋に辿り着いていた。
空はどす黒い暗雲に覆われており、豪雨とともに時折雷鳴が響き渡る。ずぶ濡れになったリュミの服を脱がし、その辺においてある椅子にかけた。放っておくと床にくたくたと倒れこんでしまうリュミの上半身を支えながら、セレスは彼女の顔を覗き込む。三日以上に渡る道程がこたえたのか、元々細かったのがさらにやつれているように見える。
セレスはここに来る途中で採って来た木の実を自分の口の中に入れると、時間をかけてゆっくりと噛み砕き、ほとんど原型を留めなくなったところで、リュミの口に自らの口を近づけ、そしてそのまま口移しで中身を移した。
リュミが反射的にそれを飲み込んだところで、今度は水筒の口を当ててやると水をゆっくりと流し込む。しかしうまく流れていかない。どうやら口移しで与えたほうがうまく飲み込んでくれるようだ。
セレスは大きくため息をつく。先日のロンの質問を思い出す。彼はリュミを指して「その娘さんは、お前さんの仲間か?」と訊ねたのである。
あの時はつい頷いてしまったが、実のところ自分にそんな資格はないと思っている。
何しろリュミをこんな風にしてしまったのは自分なのだから。
魔王をこの手で殺したあの時、血まみれのまま遺体を抱えて叫び、そして衝動に任せて周囲の何もかもを破壊した――あれほど信頼を寄せていた相手のそんな姿を見せられれば、ただでさえ壊れかけていたリュミの心が跡形もなく砕け散っても不思議はない。
オプスキュリテがこの状況を知ったらどう思うだろうか。彼女はリュミエールをこんな目に遭わせた自分を許さないだろう。きっと殺される。そうなればどんなに良いかとセレスは思った。だが、リュミエールとオプスキュリテは表裏一体――リュミエールが壊れればオプスキュリテも同じ運命を辿る。わかりきっていたことではあるが、それでも彼女が戻ってきてくれることを祈らずにはいられない。
そういえば自分もしばらく何も食べていないことを思い出して、セレスはポケットを探る。しかし、そこにはもう木の実は残っていない。リュミの分も含めて食べ物を買出しに行かなければならないだろう。確か近くに村があったはずだ。食べ物だけでなく着替えの服も手に入るとありがたい。
そう思ってセレスはリュミを床に寝かせてから立ち上がり、廃屋の壊れかけたドアを強引に押し開け、豪雨の降りしきる外に出る。
再び全身を濡らしながら、村に向かって歩き始める――同時に雷鳴が轟き、稲光が辺りを照らし出す。その時ようやく、セレスは自分の他にもう一つの人影がそこに立っていたことを知った。