「たーだいまーっ!」
 そろそろ陽が落ちてきたもののまだ夕方と呼ぶには早い時間帯に、セレスは自宅へと戻ってきた。荷車をいつもの場所に置くと、玄関から家の中に足を踏み入れる。そして父親の姿を探すが――いつもなら葡萄酒の瓶を片手に、真っ赤な顔で酒臭い息を吐きながら「ぅうるせいっ!」という怒鳴り声とともに出てくるはずの父親の姿が見当たらない。
「父さーん、もらってきたニワトリ、丸焼きにするのと鍋にするのとどっちが――」
 そう言いながらセレスは奥の部屋を覗き込む。

 そこから先は、セレスにとって生まれて初めて見る光景だった。
 いつもなら左手にはどす黒い色の葡萄酒が入った瓶が握られているはずだが、驚くべきことに今日に限って何も握られていない。
 父親の顔からは明らかに血の気が失せていた。何やら追い詰められたような表情で、じっと全身を硬直させている。そしてさらに驚くべきことに――昼間あれだけ飲んでいたはずなのに酔いは完全に醒めている様子で、酒の臭いもほとんど残っていない。
 土足で踏み入ることが前提の、決して綺麗とは言えない床の上に座り込んだまま、父親はゆっくりとセレスに視線を向けた。
「セレス……お前に話がある」
 いつになく深刻な声色に、セレスは思わず背筋を伸ばす。
 こんな状況で何を話されるのだろう――セレスは想像してみる。小さい頃に村人から聞かされた物語にありがちなパターンとしては、やはり「実はお前は赤ん坊の頃この村に捨てられていて、それを今の父親が拾って育てたのだ」といった出生の秘密みたいなものを打ち明けられる、といったものだろうか。
 しかしその『事実』は確か八年くらい前に既に父親の口から聞かされているので、今更改まって言われるような類の話でもない。
 だとすると皆目見当がつかない。そんなセレスに向かって、父親は重々しい口調でこう続けた。
「八年前――」
 その言葉に、まさか改めて出生の秘密か何かについて聞かされるのかとセレスは想像したが、その後に続いた言葉はその想像とは違うものだった。
「この村は勇者によって救われたのは、ちょうど八年前だったな」
 そっちの話か、とセレスは納得する。
 ステージVの魔獣に村が襲われたあの時――
 せめてセレスだけでも逃がそうと村人総出で応戦して時間を稼いでいる間に、彼女は言われた通りに麓の街へと走って逃げた。必死で走って街に辿り着いた彼女は街中走り回って助けを求め、そしてたまたま街を訪れていた『勇者』を連れて村に戻り――
 そのおかげで、村は奇跡的に全滅を免れたのだった。
「お前はその勇者に対して憧れてたようだが……」
 父親の言葉に、セレスは目をキラキラさせながら答える。
「顔を覚えてないのは残念だけど、でもすっごく格好よかったことだけははっきり覚えてるよ。あたしも将来はあんな風になりたいなぁ……」
「……なら改めて聞こう。もしもそれが可能だとしたら――選ばれる機会があるとするならば、お前は『勇者』になりたいと思うか?」
「もちろん!」
 力強い即答だった。
「もちろんなれるものならなってみたいよ。でもあたしにそんな凄い仕事が務まるのかな? 大体選ばれ方からしてどんな風に選ばれるのか全然知らないし――」
 そこまで勢いで告げてから、セレスは父親があまりに真剣かつ深刻な表情をしていることに気づいて言葉を止める。
「――本気で考えてくれ。もしもだ、今この瞬間お前が『この村を出て、国王に勇者としての叙勲を受け、任務を帯びて戦え』と言われたら、お前はどう思う?」
 まるで想定外の質問だった。確かに憧れてはいたものの、今すぐどうこうなどといった話を本気で考えたことなどただの一度もあるはずがない。
「えっと、その前にさ……実はあたしよく知らないんだけど、そもそも『勇者』って何する人なの? 魔獣を倒せる人、ってことくらいしか――」
 セレスの認識は、この国で庶民と呼ばれる者たちの間における一般的な認識とほとんど異なるところがない。民衆の憧憬と羨望と嫉妬と畏怖の視線を一手に集める存在でありながら、その実態はほとんど知られていないのが実情である。
「――国王や領主の依頼を受け、世界に害を及ぼす歪んだ不死の存在、すなわち魔獣や魔族を討つのが役割だ。何人もの、時には十人以上の仲間を引き連れて国中を歩き回り、この世の理を外れた怪物に命を懸けた戦いを挑む。常に死と隣り合わせの、およそこの世に存在する中で最も危険な職業――それが『勇者』だ」
 父親の口調は淡々としていたが、それがかえって実感のある迫力を伴っていた。
「魔族? 魔獣とは違うの?」
「魔獣というのは、いわば歪んだ不死の獣を指す言葉だが、魔族はそれの人間版といったところだ。魔獣と同じような力を持っていて……しかし知恵がある分、魔獣とは比べ物にならないほど恐ろしい相手だ」
 セレスは思わず息を呑む。今まで何度も魔獣を見たことのある彼女には、それが人間並みの知恵を持つとどのような恐ろしいことになるか容易に想像がつく。
「そんな連中を相手に戦う――お前にその覚悟はあるか?」
 いきなりそんなことを言われても、心の準備も何もあるはずがない。セレスは思わず黙り込み、視線を落としてぴくりとも動かないまま考え込む。
 そんなセレスに慌てて先を促すようなことはせず、父親もじっと動かずに彼女の返答を待つ。

 どのくらいの間、互いにそうしていただろうか。セレスはやがて、ゆっくりと口を開いた。
「覚悟とか、そういうのは正直全然ないよ。はっきり言って、いまだに実感としてはよくわからないし……」
 そこで一旦言葉を区切り、セレスはまっすぐに父親の顔を見上げ、そして告げる。
「でもあたし、いずれはそういう存在になってみたいと思う。この村のことは好きだし、離れるのは寂しいけど――でも国中を旅して、魔獣に襲われたりして困ってる人たちを助けて――大変で危険で難しい仕事かもしれないけど、それってとっても素敵なことだと思う」
 セレスの言葉を何度も噛み締めるようにして、父親はゆっくりと頷いた。
 そして静かに立ち上がると、重い声で告げる。
「表に出るぞ。ついて来い」

 そこは村はずれの、砂利まみれの荒れた草むらが広がる場所だった。ここしばらくは訪れていなかったが、かつては父親がセレスに剣術のようなものを教えていた場所である。
「うわぁ久しぶりー! 前に来たのは二年くらい前だったっけ」
 父親が教えていたものは厳密には剣術とは言えない。彼自身、正式な流派に属して剣術を学んだわけではなくベースは完全に我流である。そこから数々の実戦を通じて、あくまで実用本位の、相手を打ち倒すだの自分の身を守るだの、そういった「目的」を達成する「手段」として特化した技を習得し、それをそのまま娘にも伝えてきたにすぎなかった。
 父親は無言で一本の棒をセレスに投げてよこした。いつも練習で使っていた木製の棒である。木刀のように削り出してはおらず、ゆえに殺傷能力は低いがとにかく頑丈で、打ち合ったくらいではそうそう折れることはない。もっとも力の加減を間違えて体を打てば骨の方が折れてしまうくらいの破壊力は持ち合わせているが。
「構えろ」
 言われるままにセレスは棒を構える。対する父親も棒を構えるが、その構え方はわずかに異なる。右腕のない父親は当然左手のみで棒を構える。しかしその持ち方は剣というよりは斧の構えに近く、小細工抜きに振り下ろすことによって問答無用の切断力を発揮するといった類のものである。
 対して、セレスもかつては父親の構えを真似てはいたが、それで正面からぶつかり合っても勝ち目のないことを悟るや否や、自分なりのいろいろな構え方を試し、長い年月を経てようやく今の構えに落ち着いた。それは一言で言えばつるはしの構え――左手で柄尻を握り、右手をやや前方に添え、振り回すことで先端を横なぎに振るい、相手の急所に棒の先端による一撃を叩き込む構えである。
「行くぞ!」
 父親の突然の掛け声に、セレスは思わず背筋を震わせる。普段の飲んだくれている姿からは想像もできない気合である。かつてここで手合わせをしていた頃でさえ、こんな父親の姿は見たことがない。
 片足が不自由とは信じられない速度で、父親の巨体が真っ直ぐ突進してくる。迎え撃つにも避けるにも間に合わないと悟ったセレスは、正面からがっちりと受け止めようと構える。
 振り下ろされた父親の一撃を受け止める。同時におよそ尋常とは思えない衝撃が、棒を介してセレスの両腕に伝わる。
 無理に受ければ腕が折れる――そう判断したセレスは、しかしあえて腕を伸ばして衝撃を受け止める。一方で下半身の安定をあえて崩し、身体の重心を上半身に移す。
 その結果、セレスの体は見事に吹っ飛んだ。腕一本の力で人間の体がここまで吹っ飛ぶものかという距離を舞った後、セレスは尻餅をつくような形で着地した。幸い距離が離れていたため、父親が再び構える前にセレスは立ち上がることができた。
 セレスの背筋に冷や汗が流れる。今の一撃は、明らかに常軌を逸した一撃だった。人間離れしていると言っていいかもしれない。今までの手合わせでも、こんな一撃を父親が繰り出してきたことはただの一度もない。もしも今の一撃を受け損ねていたら、当たり所によっては即死していたかもしれない。
 しかし、何よりもセレスを戦慄させたのは――
「本気、なの……?」
 ここで言う「本気」とは「今まで手加減して抑えてきた力を全部出して戦う」などといった生ぬるい次元の話ではない。「殺してでも倒す」。訓練では有り得ない発想だ。試合とすら呼べないだろう。戦闘、決闘、果し合い――そのような呼ばれ方をする類のものであることを、ここに来てセレスはようやく悟った。
「いかにも本気だ。死にたくなければ、お前も全力でかかって来い!」

 何度激突しただろうか。その度にセレスの体は大きく弾き飛ばされ宙を舞った。その度に立ち上がるものの、疲労は確実に全身を蝕んでいる。
「このまま続ければ、お前はいずれ受けきれなくなる――そうすれば俺の一撃はお前の骨を砕くだろう」
 冷酷とも思える声が響き渡る。
「わかっているだろうが、これは訓練でもなければ試合でもない。どうすれば俺を倒せるか考えろ。さもなくば――死ね」
 今までの振り下ろす攻撃とは違う、喉元を抉るような攻撃が突進とともに繰り出される。受け止めるのは物理的に不可能、そして回避すらも。死、という言葉がセレスの脳裏に浮かぶ。
 まったくわけがわからない。一体父親に何が起きたのか知らないが、少なくとも確実に言えることは、このままでは何もわからぬまま自分はその短い一生を終えるであろう、ということだけだ。その理不尽さに――セレスは生まれて初めて、本気で心の底から腹を立てた。もはや手段を選んでいる場合ではない、という認識に至った瞬間、思考がかつてない速度で回転するのをセレスは自覚した。
 全ての組み立てが完了するのに要した時間は一瞬だった。あとは、身体が忠実にその指令を実行するだけである。
 セレスは父親から見て左側に向かい、全身を沈み込ませる。これを迎撃するためには父親は左に踏み込む必要があったが、その挙動はほんのわずか遅れざるを得なかった。
 しかし所詮はほんのわずかの遅れである。よって完全に回避するには至らず、突き出された一撃はセレスの肩をかすめた。刃のついていないただの棒であるにも関わらず、その相対速度のもたらした破壊力はセレスの服と肌を容易に切り裂き、少なくない量の血が辺りに飛び散る。
 だがそんなことは初めから予期していたことであり、セレスの行動には微塵の揺らぎもない。深く沈みこんだ姿勢のまま、それまで右から左に振るように構えていた棒を、瞬時にして逆に持ち替える。セレスから見て左から右、つまり父親から見て右から襲い掛かる形で、セレスは渾身の力を込めた横薙ぎの攻撃を繰り出す。
 一瞬後には、セレスの繰り出した一撃が父親の右肩を正確に打ち据えていた。だが、無理な体勢から打った無理な一撃である。肘から先を失ってもまだ衰えることのなかった右肩の筋肉に阻まれ、決定的なダメージに至らない。だが、左側に踏ん張りの利かない父親の身体はその衝撃を受け止めきれずわずかに傾く。その時点で既にセレスは棒を元の位置に構え直していた。
 万全な体制から繰り出される完全な一撃が、セレスから見て右から左、すなわち父親から見て左側から襲い掛かる。普段、鉱山で岩を砕く時と同じ速度で振り下ろされた一撃は、腕と違って筋肉に覆われていない左手の甲に一寸の狂いもなく打ち込まれ、骨のみならずそこに握られていた棒までをも粉砕した。

 あまりに見事に決まってしまった一撃に、セレスの表情に焦りが走る。だが何よりセレスを驚かせたのは、左手の骨が砕けるといったとんでもない苦痛を感じているであろうはずの父親が、その表情を微動だにさせていないという事実だった。
「……見事だ。俺の言いたいことがしっかりと伝わったようだな」
 棒を取り落としながらも、見る見る腫れ上がっていく左手を庇う素振りすらみせずに父親は続ける。
「いざ殺し合いになったら、遠慮することに何の意味もない。相手の都合より自分の身の安全を優先しろ。弱点があるなら迷わず狙え。思いやりとかそういった感情は、自分が危機を脱してから考えればいい」
「えっと、あのさ、今そんなこと言ってる場合じゃ――」
「お前の性格からいって、そういった戦いの場には向いてないんじゃないかと心配だったが、この分ならまあ、何とかやって行けそうだな」
 なおも心配そうな表情を見せるセレスに、父親はようやく笑みを浮かべて見せた。
「なに、この程度の怪我は現役時代はしょっちゅうだった。初めの頃は痛くて我慢できなかったが、何十回も繰り返せば痛みなんて無視できるようになる。ああ、でも両手が一度に使えなくなるのは初めてだなぁ……飯は頼めば誰かが食わせてくれるだろうが、酒は誰も飲ませてくれんだろうなぁ。さてどうしたものか」
 その笑みには強がりとかやせ我慢といった成分は含まれていなかったが――しかしなぜか、どことなく寂しげな笑みだった。


Prev<< Page.5 >>Next