その時、セレスはどう反応していいのかわからなかった。確かに『勇者』という存在には憧れていた。しかしそれは遠い未来を想定した、しかも現実味の欠片もない夢物語で――
「このことをバレーヌ殿にお伝えしたところ、それはもう強硬に反対されてな。あまりの剣幕に、衛兵が二人揃って腰を抜かして這いつくばって逃げ出しおって、一体何のためのに連れて来たと思っておるのだ――失礼、つい愚痴を述べてしまった」
軽く咳払いすると、表情を改めてヴァルトは続ける。
「宣託には国王の署名も付されている、すなわちこれ勅命である。何人たりとも背くことは許されぬ。だが――」
「もし本人がそれを望まないのであれば、どんな手を使ってでも守り通す覚悟だった。王宮から追っ手が来ようと知ったものか。皆殺しにしてくれる」
父親の言葉に、ヴァルトとセレスは同時に顔を青くする。
「ちょ、ちょっと待って! あたしがもし『勇者になんてなりたくない』って言ってたら――まったく父さんってば、ほんっとに何考えてるの! そういう大事なことをなんにも言わずに、一人で勝手に決めちゃって!」
「言えば、お前は絶対に首を縦に振っただろう? たとえ本当は行きたくなかったとしても」
父親の言葉にセレスは黙り込む。
「正直言って、お前を『勇者』なんぞにしたくはないのだ。俺は既に一度、奴らに一番大事なものを奪われているんだ。二度も耐えられるはずがない――」
それだけ言うと、父親はこちらに背を向け、家の中に入って行ってしまった。ヴァルトはその背中に向かって、深々と頭を下げる。
「奴ら? 大事なもの?」
セレスは、何か知っていそうなヴァルトに向かってそう訊ねるが、彼は首を横に振った。
「それは私の口から告げることはできない。だがこれだけは言わせてもらう」
そしてヴァルトは、これまでにないほど真剣な表情をセレスに向ける。
「絶対に死ぬな。必ず生きて戻り、無事な姿をバレーヌ殿に見せるのだ。勇者に任じられた者のうち、四人に三人が引退する前に命を落とす。どんな手を使ってもいい、お前は残りの一人になれ」
その言葉の内容にセレスは衝撃を受けたが――しっかりと頷くとともに、深く心に誓った。必ず残りの一人の側になり、必ずこの村へと戻ってくることを。
*
その夜、父と娘は食卓を挟んで向かい合っていた。
食卓の上にはかつてないほど豪華なメニューが並んでいる。三羽のニワトリはそれぞれ香草のようなものを詰めた丸焼き・トマトっぽい何かをベースにした煮込み鍋・山盛りのフライドチキンの三種に姿を変え、とっておきの小麦を使った焼きたてのパンまでもが添えられている。
しかし、そんな食事を目の前にしても二人は全く何も語らず、ただ黙々と食べ続けた。
そしてセレスが最後に鍋の汁を飲み干すと、部屋は物音一つない静寂に包まれた。
「……本当に残さず食うとはな」
父親がぽつりと呟く。
「だってこの家で食べるのも今日で最後だから。明日はもう――」
それきり二人は再び口を閉ざす。
あの役人――ヴァルトは一旦麓の街まで戻っていった。そして明日改めて馬車で迎えに来て、その後セレスはまず学校とやらに二週間ほど入れられ集中講義を受け、それから勇者としての心得や制度に関する細かい説明が行われた後、いよいよ叙任式の日を迎える。叙任式では、なんと国王直々に勇者としてのしるしを手渡されるのだという。
「勇者として旅をするには、読み書きくらいできないとお話にならないってヴァルトさん言ってたけど――」
この国の大半の平民がそうであるが、例に漏れずセレスも読み書きはできない。下手くそな字で自分の名前を書ける程度だ。また、貨幣を使う習慣のない辺鄙な村ではありがちなことだが、計算の類もほとんどやったことがない。何しろ百より大きな数字に触れたことすらないのである。
「こんなことになるならちゃんと勉強しとくんだったなぁ。ただでさえ頭悪いんだから。学校とかですっごく恥ずかしい思いしちゃいそう」
「勉強すると言ってもな……この村でまともに読み書きできる者などロン爺くらいのものだぞ」
「父さんは?」
「できるくらいならとっくに教えている」
なぜか偉そうに父親は答えた。
「まあ確かに旅の時は不便だったな。他の仲間が皆読み書きできたから何とかなったが」
「どんな旅だったの? 実は父さん昔は勇者でした、なんてことはないよね?」
目を輝かせながら身を乗り出すセレスに、しかし父親はどこか遠い表情で答える。
「俺はもちろん違う、だが――勇者パーティの一員ではあった」
「やっぱり! だからあんなに勇者のこといろいろ知ってたんだね。だったらさ、その時のこといろいろ話して――」
勢い込んでそこまで言ったところで、ようやくセレスは父親の表情がおかしいことに気づいた。
「……聞かないほうがいい、かな?」
そんなセレスに向かって、父親はぽつりと呟く。
「最も大事なものを、魔王に奪われたんだ」
再び辺りが静寂に包まれる。窓から入った隙間風が、ランプの灯とともに二人の影をも大きく揺らす。
「お前は似ているんだ。成長するにつれてどんどん……正直に言おう、俺はお前に対して憎しみを抱くことすらあった」
突然の告白に、セレスが言葉を返せずにいると、父親はセレスの返事を待つことなく続けた。
「だから酒に逃げた。それでも俺はそのうち自分を抑えられなくなり、お前に当たってしまうんじゃないかと心配だった。だからこそ、お前に自分の身を守る方法を教えたんだ。俺がトチ狂ってお前をどうにかしようとしても、返り討ちにできるようにな。実際その通りになったわけだが」
そう言いながら、父親は折れた自分の左手をセレスに見せた。包帯でぐるぐる巻きにされた中から、木のフォークの先端が飛び出している。この手でも食事ができるようにセレスが結びつけたものだ。
「しかし――違った。頭から酒を抜いて、お前に全力でぶつかってみて思い知った。俺の心にはいまだに消えることのない憎しみが宿っている。だが、もはやそれをお前に向けることなどできん。運命とは皮肉なものだな、まさか俺がお前を……あの時奪われ、失ったものと同じくらい……」
父親はそのまま口を閉ざして席を立つと、セレスに背を向けて歩き出した。だがその動きが唐突に止められる。
セレスが父親の背中に抱きついたのだ。
身長差があるので、セレスの腕は父親の腹の辺りに回され、しかも胴回りが太いために腕が回りきっていなかった。それでもその腕はしっかりと、父親の体を掴んで離さなかった。
「戻ってくるよ」
セレスは言った。
「絶対戻ってくるから。二度とそんな悲しい目に遭わせないから……あれ、どうしたんだろう。あっそうか。今になって肩の傷が痛み出したんだ。だからこんな……」
セレスの顔から溢れ出した透明な滴が、父親の背中を濡らしていく。
二人はランプの灯が消えるまでの間、ずっとそうして立っていた。