朝の匂いと、斜めから差し込む木漏れ日に包まれた村の広場。
 こんな村にはおよそ場違いな黒塗りの馬車の中から、昨日の役人・ヴァルト一等官が姿を現す。
「あれ、ヴァルトさん寝不足?」
 右手には愛用のつるはし、背中には自分自身が入ってしまいそうなほどの大きな背負い鞄。服装はいつもと同じ袖なしシャツとポケットの多い半ズボン、膝上まである頑丈な革ブーツに加え、遠出する時に身につける肘当てと髪留め――
 すっかり旅支度を整えたセレスが訊ねると、ヴァルトはあくびを堪えながら頷いた。
「あの後、街まで大急ぎで引き返して、そのまま馬車に乗り換えてここまで飛ばしてきたからな。本部の連中が馬車の調達に手間取らなければ最初から馬車で来たものだが」
 よく見ると、彼の両脇に立つ兵士は昨日の田舎兵士二人組ではなく、光沢のある上等な鎧に身を包んだ別の二人組に入れ替わっていた。おそらく王宮付きの兵士なのだろう、立ち方からして昨日の田舎兵士と違うことくらいはセレスの目にも明らかだった。
「目的地まではここから馬車で三日ほどかかる。女子供にはいささか辛い道程のはずだが……」
「うーん、これから勇者になるって人に向かってそういう心配もどうかと思うけど……?」
「まあお主なら心配要らぬだろう。根拠はないがなぜかそんな気がする。少なくとも私より先に音を上げることはあるまい」
「それはそれで何か引っかかる言い方だなぁ……」
「まあそれは良いとして、だ」
 ヴァルトは一旦言葉を切ると、広場全体をぐるりと見回した。まるで馬車を遠巻きに囲むようにしておびただしい数のボロ布の巻かれた泥の塊――ではなく村人たちがじっとこちらを注視している。
「一体これは何事だ……はっきり言ってかなり怖い光景だぞ」
 ある者はすすり泣き、ある者は乾いた声で笑い声を発し続け、ある者は焦点の合わない目を広場の中央に向けている。
「みんな、見送りに来てくれたの? ほとんど全員いるような気がするんだけど」
 ちなみに「ほとんど」に含まれない唯一の村人である父親は、夜通し布団を被って泣いていたため今頃泣き疲れて一人で熟睡しているはずである。
 そして「ほとんど」の村人を代表して、事実上村の代表でありセレスとも親交の深かったロンじいさんが前に歩み出る。
「いつか……いつかお前さんが村を出て行く日が来るということはわかっておった」
「ロンじいさん?」
 彼の顔は相変わらず深い皺と長い白髭に埋もれ、表情が読みにくいことこの上ない。
「お前さんがわしらとは違う、大きな可能性を秘めた存在であることも、そんなお前さんにはこの村は狭すぎるということも。だが……こんな日がまさかこんなに早く、しかも昨日の今日で訪れるとはさすがに予想しておらなんだ」
「あたしも……外に出てみたいって考えることはいっぱいあったけど、せいぜい麓の街に行きたいとかそんなことくらいで……まさか王都に行って勇者になるなんて」
 勇者の活動範囲は王国全域、時には異国にまで及ぶという。しかし駆け出しの勇者はまず王都の近辺で経験を積むのが通例で、それから徐々に様々な地方に足を伸ばし、さらなる困難に挑むことになるのだ。
 しかし辺境の村で生まれ育った者の感覚として、この世界の中心である王都への道程は月よりも遠い。そこからさらに別の地方に行くとなると、数多の星々を駆け巡るようなものだろう。
 そんな彼方に向かって旅立つことに、セレスは慣れ親しんだ村を離れる寂しさを感じてはいるが――しかし新天地に対する不安や恐れは微塵もなかった。
「しかし村を出て都会に行くなら、必ずこれが必要になるだろう。持って行くがいい」
 ロンじいさんはセレスに歩み寄ると、人の頭ほどの大きさのある布の袋をセレスに手渡した。
「うわ重っ! 中身は……何これ、もしかしてお金?」
 中にはまばゆい輝きを放つ銀貨が詰まっていた。それも今までセレスが数えたことのないような数――すなわち百枚は超えているに違いない。
「だめだよ! これってすごい大金なんでしょ? 受け取れないよ!」
「勿論それなりの大金ではあるが、しかしそれでもほんの一部に過ぎん……お前さんがこれまで貯め込んできた金の、ほんの一部じゃ」
「……あたしの?」
 訳が分からない、といった顔で見返すセレスに、ロンは頬の皺をさらに深くして告げる。
「お前さんが今までに掘ってきた、とてつもない量の鉱石や原石、それに魔石――それらはどこに消えたと思う? 得られた金を全部ニワトリにつぎ込めば、おそらく何万羽という数になっとったじゃろうな。一生かかっても食べ切れんわい」
「で、でもこんなにもらっちゃったら、ロンじいさんの取り分がなくなっちゃわない?」
「心配は無用じゃ。さっきも言ったがこれはあくまで一部で、残りは街の銀行に預けておる。昨日の今日ではこれだけしかかき集められんかったが……それにわしの取り分は別に取っておる。それこそ街に行くたびに毎度毎度、酒池肉林の乱痴気騒ぎをしてもお釣りが来る程度にはな」
 あの爺ぃそんなことしてやがったのか、などと囁く村人たちの声をよそに、ロンじいさんはセレスの頭を半ば強引に抱き寄せた。
「金が足りなくなったら取りに来るとええ。足りなくならなかったとしても、帰りたいときにはいつでも帰ってくるとええ。わしらはそれだけを生きがいに、いつまでも待ち続けておるぞ」
「そんな大げさな。あたしがいなくなってもみんなは――」
 だが、そう言いかけたセレスの声を、ついに我慢できなくなった村人たちの怒号が掻き消した。
「ぬおお爺ぃ、黙って見ていれば調子に乗りやがってもう勘弁ならん!」
「いつもいつもセレスちゃんを独り占めしやがって!」
「この期に及んで破廉恥な真似を! 成敗してくれるわこの酒池肉林乱痴気爺ぃ!」
 いつも死んだような虚ろな目を宙にさまよわせているような村人達だが、一度火がつけばどこまでも燃え上がる。ことセレス絡みのこととなればそれこそ彼らの勢いはとどまる所を知らない。
「ま、待て、話せばわかぶぎゃっ」
 騒ぎはセレスやヴァルト、さらには傍に控えていた護衛の兵士までをも巻き込み、彼らは普段蓄えていたエネルギーをここぞとばかりに発散するかのごとく大暴れし――皆が力尽きて静まる頃には、既に太陽は頂点にまで達していた。

 後に勇者として、あるいは別の名を冠して語られることになるセレスティアの平穏な日々は、こうして終わりを告げた。


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